教え

目次


第2章 現代社会へ 浄土真宗からの十のメッセージ

第1章 浄土真宗の特質

▽仏教の理想

仏教の最高の恵みは解脱です。解脱とは解放されることです。私が苦しみや迷いの状態から解放されることです。なぜ仏教では解放されることを大切にするのかといえば、「仏説無量寿経」に「有無同然にして憂思まさに等し」(あってもなくても悩むことは同じである)とあります。あればあることによる悩みが生まれ、なければないで悩む。悩みの根本は、あるなしにこだわり、思い通りになったことだけに幸せを感じる私への執着が解決されなければ、本当の安らぎはないからです。そのための方法や目標などの方程式が説かれているのがお経です。
釈尊の成道は、解脱という言葉とともに覚りという言葉でもあらわされます。覚りとは目覚めることです。いま風な言葉でいえば覚醒することです。解脱も覚りも、迷いから解放されることであり、迷いから目覚めることなので同じことです。
特に浄土真宗という仏道は、凡夫の私が解脱、あるいは覚りを得るというカテゴリーが明かされている教えです。浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、この浄土真宗を明らかにされた七人の高僧の理解を通して仏教の真意、すべての人が解脱にいたる道を明らかにされました。

▽浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来

ご本尊とは「本当に尊いことがら」という意味です。人によって、尊いぶのが権力であったり、お金であったり、モラルであったり相違します。
浄土真宗の本尊は、私の闇を破る働きとしての阿弥陀如来、または「南無阿弥陀仏」の名号です。
阿弥陀如来のお姿は、姿を通して阿弥陀如来の慈しみを表現したものです。真正面を向いているお姿で、真向のの尊像といいます。
他宗は来迎仏(右に向かうは来迎仏)と言い、臨終にお迎えに来て下さるお姿や、引接仏(左に向かうは)浄土に運んでいくなどがあります。来迎・引接というと有り難そうですが、お迎えには条件が付けられています。
この真向かいのお姿は覚如上人(親鸞聖人の玄孫)の時、初めて真向本尊を発布したと言われています。このお姿の元は、京都・寺町の阿弥陀寺に源空上人安置の画像(真向の身形)があり、左方下角に光明をよけて、沙門源空と御名御判があり、本願寺派の真向の本尊はこれを写したものといわれています。
仏像の後光には串後光と船後光があり、串後光は大谷派で本願寺派は船後光です。ともに阿弥陀仏の光明をあらわしています。
絵像は本願寺派では背後の光背が上が6本、下が8本描いた絵像ですが、大谷派では上に4本、下に8本の光背が描かれています。共に四十八の光明が放たれ無量寿経に示される十二光が四方にゆきわたる表現がとられています。
名号本尊には、十字、九字、六字の三種があり、いずれも方便法身尊号とよばれますが、親鸞聖人は十字名号を重視されたようです。帰命尽十方無碍光如来という十字名号は、十方の衆生をさわりなく摂取するという阿弥陀仏の絶対無碍の救いを表現した仏さまです。

▽宗祖と経典

浄土真宗のご開山は親鸞聖人です。 大師号は「見真大師」で、明治九年十一月二十八日、明治天皇より贈られました。鎌倉時代(1173~1262)の方です。「見真」とは、無量寿経の「慧眼見真能度彼岸」(慧眼は真を見てよく彼岸に度す)の文によります。経典は「仏説無量寿経」(大経)「仏説観無量寿経」(観経)「仏説阿弥陀経」(小経)です。

▽浄土真宗の伝承

親鸞聖人は七人の高僧の説を受けて、浄土真宗は明らかにされました。七人の高僧とは、インドの龍樹菩薩、天親菩薩、中国の曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、日本の源信僧都、源空聖人です。その七人の高僧の説を通して浄土真宗の特質に触れてみましょう。

 

仏道には難行道と易行道があるー龍樹菩薩(150~250年頃)
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽(正信偈)
【難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ】

 

龍樹菩薩は南インドの出身です。仏のなるという目的を達成するためには二つの道があることを明かにされました。一つは自分の力で山道を上るような難行道と、もう一つが船に乗って水路を行くような易行道です。易行道とは、阿弥陀仏の働きを信ずることによって達成される道です。
信じることの大切さについて「アイデンテイテイー」という言葉を生みだし、人の心の成長を明らかにされたE・H・エリクソン博士(1902-1994・心理学者)の教えが参考になります。
エリクソンは地球上のどの民族でも、人は首がすわって、ハイハイをし、その後に立ち上がる。首がすわる前に立ち上がる人はいません。人間の成長には順番がある。心の成長も同じように、どの民族であっても、同じ発達過程を経て成長していくことを解明された方です。
そのエリクソンは、まず人間は0歳から1歳までの幼児の間に、「基本的信頼」を学ぶと教えています。幼児が泣いたらすぐそれに応じ、幼児が欲することをしてあげる。こうした十分は依存体験を満足させることによって、自分を受容してくれる基本的な信頼が育つ。基本的信頼が基礎となって、初めて自分を信じることができるのだそうです。
この基本的な信頼が育ってないと、大人になっても人間関係を拒否したり、また周囲に対する信頼や自分を信ずることが欠落してしまうとのことです。自分に対する自信は、自分を取り巻く周囲への信頼という土台によって生まれるということです。
このエリクソンの説く基本的信頼とは単なる依存心ではありません。自分を取り巻く、より大きないのちへの信頼であり、それは同時に、自分に対する自信であり自立です。
龍樹菩薩が示された阿弥陀仏への信も同じように、阿弥陀仏への依存心ではありません。どんな時でも、どんな状態でも、私を受け入れて下さる方が存在する。そこから「このままでよし」という自信が育まれてきます。阿弥陀仏の無量寿への目覚めは自分への目覚めでもあります。
災難や災害、何が起きるか分らないこの世にあって、いつでも、どんな時でも自立できる自分になる。それが難行道であり、人格を完成させていく道です。私がどんな状態であって、ありのままの私を受け入れてくださる阿弥陀さまがいらっしゃる。その大きな仏のいのちに開かれて生きる。これが阿弥陀仏を信ずることによって安らぎにいたる易行道です。

阿弥陀仏への帰命の心が生れる ここに阿弥陀仏の働きがあるー天親菩薩(五世紀頃)
広由本願力回向 為度群生彰一心(正信偈)
【広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す】

 

次の天親菩薩は、自から「われ一心に」と阿弥陀仏を礼拝された方です。阿弥陀仏が私たちのために整え表現された浄土のお荘厳やすばらしい特性のすべては、凡夫の私をして阿弥陀仏に「われ一心に」と帰依させるために仕掛けられた壮大なるドラマであり、ひとたび阿弥陀仏に帰依した人は、虚しく終わることのない人生を歩む人であると教えています。
浄土真宗の仏壇は金箔であつらえた金仏壇を整えます。そして本尊を安置して信仰生活を営みます。なぜお仏壇を整えお荘厳するのか。それはお仏壇の前に座ると「南無阿弥陀仏‥」の称名が盛んになり、潤沢にふんだんにお念仏を称えます。この念仏を称えることが盛んになるところに、お仏壇を安置する大きな理由があります。お仏壇のご本尊が尊いから、お念仏を称えるのですが、そのご本尊と同様に凡夫の私の口に出てくださる「南無阿弥陀仏」が尊いのです。だからたとえお仏壇がなくても、悲しみの涙の中で「南無阿弥陀仏」と念仏するとき、そこにお仏壇がなくても悲しみの涙の中で浄土真宗の信仰生活は成り立ちます。怒りの炎のなかで、その怒りを縁として「南無阿弥陀仏」と念仏するとき、怒りの中にあっても浄土真宗の信心の生活は成立するのです。悲しみや愚かさ、怒り、喜びなど、喜怒哀楽のはざ間で、その喜怒哀楽を縁として「南無阿弥陀仏」と念仏するとき、そこに浄土真宗の信心の生活は成り立ち、私の悲しみや愚かさが「南無阿弥陀仏」の仏さまに出遇うための、大切な営みであるという仏に連なる意味を持ってくるのです。

仏教には自力と他力があるー曇鸞大師(476~542)
往還回向由他力 正定之因唯信心(正信偈)
【往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり】

 

曇鸞大師は、信心一つで救われていくのは、阿弥陀仏の働きである仏力によるからであり、その仏力を他力という言葉で明らかにされました。私が念仏を称えることは、私の自由意志と裁量の結果ではなく、私を救うという阿弥陀仏の願いによって私の上に「南無阿弥陀仏」と成就した本願力の賜ものなのです。
私が念仏を称え、仏の頭をたれ、経典をよみ、手を合わせる。そうした阿弥陀さまとの交わりのすべてが、仏力によるとの理解です。念仏という仏と交わる行為の原動力を、仏の働きと仰いでいく背景には、自分は仏さまとは縁のない人間であり、愚かな凡夫であるという見極めがあります。浄土真宗は、他力を頂きながら、自分に対する執着から解放されていく教えです。
浄土真宗を学ぶ場合、浄土宗鎮西派(法然上人の弟子弁阿を派祖とする)と浄土宗西山派(同・証空を派祖とする)の相違を学びます。たとえば「称」(念仏を称えること)をどう理解するかといえば、鎮西はトナウと読みます。トナエルことの積み重ねによって仏と出会っていきます。同じ他力でも、一の自力と九の他力によって救われると説くのです。西山派では、称を「カナウ」と読みます。仏の願いにカナウことで、念仏を通して仏と私が出会うのです。救いたいという仏の願いと、救われたいという私の願いが一つになるとです。浄土真宗では、称をハカリと読みます。ハカリとは秤のことで、重さを量るハカリです。目盛りが動いた量だけ、外から加わっている力をはかる計器です。私が念仏を称えることは、私に念仏を称えさせようとしている他の力のあったという理解です。
「トナウ」とは、小さないのち(私)が、努力して大きないのち(仏)と一つになることです。「カナウ」とは、大きないのち(仏)と小さないのち(私)が一つに出会っていくことです。「ハカリ」とは、大きないのち(仏)と小さないのち(私)が、一つになることではなく、本来一つであったことに心が開かれることです。この違いは、人間の可能性をどう理解するかの相違でもあります。私の中に、大きないのちに近づける努力の可能性を認めるか。大きないのちに近づく願いを認めるか。努力も願いも一切の可能性を認めず、可能性の断念を通して、すでに恵まれてあったことへの気づきを得るかの相違です。
仏に成る可能性がないままに救いを語る浄土真宗は、「~になれない」(救われない)存在をも、その存在をそのまま肯定し、仏と同質の尊さを見ていこうとする考え方です。

仏教には聖道門と浄土教があるー道綽禅師(562~645)
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入(正信偈)
【道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす】

 

次の道綽禅師は、釈尊の説かれた仏教を、この世で人間の完成を目指す聖道門と、阿弥陀仏の浄土において完成をめざす浄土教に分類され、愚かな人々が仏になるという道は浄土教、阿弥陀仏の慈悲による救いの道しかないことを明らかにされました。
浄土教は、浄土で仏になる教えです。愚かな人間はこの世では救われないというのです。この世では救われないとは、愚かな人を、無価値であると切り捨てているのではありません。むしろ愚かな人を認めていこうとしているのです。
たとえばカウンセリングで説く受容という理解があります。子どもの不登校でいえば、学校に行かせることではなく、行きたい気持ちも、また行きたくない気持ちも理解し受容していきます。
学校に行かせようという思いだけが強いと、学校に行けない子どもの気持ちを受容することができません。こうあるべきという一つのゴールを決めると、それ以外の状態を受容できないのです。
その人のすべての可能性を認めるためには、「この世で仏になる」ことを断念することが重要です。こうあるべきという理想を持たないことです。浄土教の「この世では救われない」という人間理解は、一見、自分の生き方を否定した言葉のようですが、「この世で救われない」存在をも認めていこうとする教えなのです。
それを可能にするのが「救われないままに浄土に生まれて仏に成る」という阿弥陀仏のお慈悲の世界です。浄土教とは、自身の存在への悲しみを通して、その悲しみに相応して下さっている阿弥陀仏の大悲に出遇い、その大悲の中に、悲しみの存在が肯定されていく仏道です。

嘘が明らかになる ここに真実の働きがあるー善導大師(613~681)
善導独明仏正意(正信偈)
【善導独り仏の正意をあきらかにせり】

 

嘘と仮の私を唯一絶対と固執するところに凡夫の迷いがあります。その嘘が嘘と明かになる。ここに真実に触れた証しがあります。そして嘘に汚染された私が、阿弥陀仏の清浄な世界に摂取されていく。これ偏に阿弥陀仏の働きによります。善導大師は、凡夫の救いを明らかにしてくださった方です。
阿弥陀仏は、この世の人をご覧になったとき、大いなる悲しみの心を起こしたといいます。その大慈悲心を「無量寿経」には、「無蓋の大悲」とあります。無蓋の蓋はフタのことです。無蓋とはだれでもということであり、無条件ということです。阿弥陀仏は無条件に救うという慈悲を発動し、無条件の慈しみを内容とする「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、私を迎えにきて下さっています。
阿弥陀仏が煩悩に汚染され闇に沈んでいるこの私をご覧になったときの悲しみは、完成された人間と比べた凡夫の愚かさまさに対する悲しみではありません。その愚かな凡夫を仏と同質の尊さと仰ぐことのできない、如来ご自身の未熟さへの悲しみであったに違いありません。だからこそ阿弥陀仏は、人間のあるべき理想ではなく、仏の豊かさ、慈しみの深さを問題とされ、すべての存在を無条件に救う仏になることを願われたのです。
阿弥陀仏の無条件に救うという教えは、無条件で救われるしか救われようのない私であるという、人間の闇の深さ、人間の本性いいあてた言葉でもあります。阿弥陀仏の本質は無条件の救いにある。その阿弥陀仏の本質が明確でなかったということは、人間の闇の深さが明らかでなかったということです。

浄土には純粋な浄土と純粋でない浄土があるー源信僧都(942~1017)
専雑執心判浅深 報化二土正弁立(正信偈)
【専雑の執心、浅深を判じて報化二土まさしく弁立せり】

源信僧都は比叡山の方です。阿弥陀仏の浄土には、真実に即した偽りることのない浄土と、純粋さにかける化の浄土があることを示され、それらの浄土へ生まれる分かれ道は、念仏者の信心、すなわち心の置きどどころにあると示されました。
私たちは結果をもって、現在の状況を明かにするということがあります。食事中、親が子に「もっと食べないと大きくならない」といいます。結果を持ち出して、今していることの良し悪しを語ります。因果の法則では、原因の如何によって結果が異なってきますが、逆に結果によって原因の善悪が規定されます。
スポーツの選手権で、試合前に病気で2日間、練習を休んだが優勝した。そうなると病気で休んだことが、よい休養になったと評価されます。結果が原因の価値を決定するのです。
源信僧都は、往生の結果である浄土に純粋な浄土と、少し純度が落ちた浄土があると説かれるのは、結果から、浄土に生まれる原因である修行者の行為の値打ちを見ていこうとされた方です。純粋な浄土へ生まれるためには念仏一つに心が定まる専修(念仏を専門に修する行為)であり、純度の落ちた浄土へ生まれる原因は、努力して念仏以外の修行もする雑修(雑多な行を修する行為)にあると明らかにされました。
私たちの常識では、念仏一つよりも、難行苦行を取り入れた修行のほうが勝れています。浄土教において、雑修を行う人もその常識にたって行を積んでいく人です。しかし雑修の行は、「念仏一つで大丈夫」という阿弥陀仏の経説にたいして「もしかすると」という疑いがあり、あれもこれもと努力する人です。また自分は努力できる人間であるという人間理解に立っています。自分の愚かさに見切りがついていないのです。専修は、私が努力して浄土に生まれるのではなく、阿弥陀仏が努力して私の念仏になってくださったことを、すなおに受け入れることです。そして源信僧都は、専修念仏こそ仏教の本道であることを私たちに明かにされました。

 阿弥陀仏が選ばれた行―法然房源空聖人(1133~1212)
真宗教証興片州 選択本願弘悪世(正信偈)
【真宗の教証、片州に興し 選択本願悪世に弘む】

 

源空聖人は、親鸞聖人の直接の師です。「選択本願念仏集」を著されて念仏の奥の深さとすばらしさを示された方です。選択とは選ぶということです。源空聖人は三つの選びを説いています。
「生死を離れようと思ったら、まず聖道門を選び捨てて、浄土門を選べ」とすすめられます。そして「浄土門に入ろうと思えば、雑行をなげうって正行を選び取れ」、すなわち浄土に生まれるための難行苦行ではなく、阿弥陀仏の願いを観想したり、願いが説かれた経典を読んだり、仏名を称えたりしなさいと示されるのです。次に「正行を修そうと思ったら、助業をかたわらにして、選んで正定の業をもぱらにせよ」と、その中でも称名念仏を選びなさいと勧められました。
この三つ選びは、修行者に向けて選択せよと語っていますが、修行者はその三つの選択を通して、なぜ阿弥陀仏がその行を選択されたのかに触れていきます。
阿弥陀仏の選択の根底には、修行者の修行にたいする可能性を断念させると願いがあります。最後に到達するのが、念仏一つです。阿弥陀仏に救われていくしか救われようのない人間であるという、自己に対する執着からの解放です。
そして親鸞聖人は七人の高僧の教えに導かれて、自分の愚かさへの目覚めは自己への執着から解放される道であり、阿弥陀仏の本願の力に開かれている人は、自然の道理として、一切の執着のない純粋な世界である浄土を往生していく人であることを明かにしてくださったのです。

第2章 現代社会へ 浄土真宗からの十のメッセージ

(1)悪人の救い  照らされて悪を生きる

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。(親鸞聖人・歎異抄)

【真実の教えは、嘘が明らかになる輝きと、その嘘を摂取する深さがある】
悪とは覚りを得るための妨げになるものです。社会的な犯罪や、道徳的な悪に限定されるものではありません。欲しい欲しいとかつ愛してやまない欲望と、思い通りにならないことに基因する怒りと、すべてを自己中心的に判断する愚痴と、他と比較することから起る慢心、また本当の決断ができない疑惑の心や偏見などの思想的な固執(六大煩悩)のことです。これらの悪は、闇に閉ざされている人にとっては苦しみの原因でしかありません。しかし阿弥陀仏の光に照らされると、その阿弥陀仏の存在と、阿弥陀仏の願いの深さを知る種となっていきます。
チンダル現象というものがあります。煙霧質などに光を当てたとき、その微小な粒子によって光が散乱され、光の通路が一様に光って見える現象です。朝、障子の隙間からさし込む光の中に無数のゴミの粒が見え、映画館の映写機から発する光が光の筋道として見える現象です。これはゴミの粒子に光があたって、光が拡散し光の姿をあらわします。宇宙は暗黒です。しかし地球のような星があると、その星に光があたって、星が輝いて見えます。光がその姿を現すのです。
このゴミの粒子と光の関係は、私と仏さまの関係に似ています。いのちの法則である、すべてのものは移りゆくという諸行無常、すべてのものは助け合い補い合い因と縁によって成立し永久に続く実体はないという諸法無我、煩悩の炎を消しつくしたところに安らかな生活がおとずれるという涅槃寂静、この三つの法則(三法印)にそって日常生活を営んでいる人のうえに、仏さまはその姿を現す必要がありません。しかしいつまでも若く勝ち組みですごせると思っている人のうえに、「諸行は無常です」という言葉となって仏さまが姿をあらわします。自分ひとりの力で生きていると思っている人のうえに、「諸法は無我である」という言葉となって仏さまは姿をあらわします。
仏さまが、その言葉でその人の上にあらわれるにあたっては、その言葉であらわれなければならない闇がその人の上にあったということです。
浄土真宗の教えは、悪人が救いの目あてであると説かれます。悪人が悪人と知らされることは、光がゴミの粒子にあたって、ゴミの粒子がゴミの粒子として明かにあることに似ています。自分の悪が知らされる所に、真実との出遇いがあります。そして自分の悪に頭が下がるという体験の中に、自分を唯一絶対とする自己への固執から解放されていくのです。
(2)他力本願     願いの中にある私を生きる

他力といふは如来の本願力なり。(親鸞聖人・顕浄土真実教行証文類)

【真実の願いは、闇に沈むいのちを見いだし、そのいのちに尊厳を見いだす力がある】

私たちはいろいろな願いをもって生きています。私の願いとは別に願われているという世界もあります。たとえば動物や人間は、口の上に鼻があります。これは偶然ではなく、口から腐ったものや毒が入り込まないように鼻が口を監視しているのです。その根底には、この身体を傷つけてはならないという身体に宿っている願いがあります。
身体に宿っている願いは、過去から現在へといういのちの連鎖の中に味わっていける願いです。それと私個人の成長の上に感じられる願いもあります。それは親の願いであり、仏さまの願いです。
阿弥陀仏の慈しみは母の愛の例えられることがよくあります。阿弥陀仏の願いは、私を念仏申す身に仕上げるというものです。なぜ念仏申すことを、そのように重要視されたのか。それは、念仏が仏に近づく行為ではなく、私をそのまま救うという如来の存在の証だからです。
「南無阿弥陀仏」と念仏を称える。そこに念仏となって私を救おうとされる阿弥陀仏の願いがあります。親鸞聖人は、阿弥陀仏の慈悲を磁石にたとえられています。磁石は、鉄を吸いつけるときに、鉄を磁気で満たし磁石にして吸い寄せます。阿弥陀仏も闇に沈むこの私を阿弥陀さまの世界に摂取するのに、称えられる姿となって、私のいのちの上におよび、「ここにあなたの生き方を問わない仏まします」と名のりでて、念仏を喜ぶ人にして摂取して下さいます。「南無阿弥陀仏」の念仏は、慈しみの仏さまそのものなのです。闇に沈む私を、念仏を称え、仏の教えを喜ぶ人となさしめて救うというのが阿弥陀仏の企てです。その救いの働きを他力本願といいます。
(3)浄土に往生して仏に成る    仏になるいのちを生きる

大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、(親鸞聖人・顕浄土真実教行証文類)

【無条件にすべての存在が浄土に生まれて仏になることに心が定まる。それは無条件にどのような生き様であっても仏なに成るほどの尊厳を持っていることに心が定まることです】

「お浄土って、本当にあるの」。そう聞かれると少し戸惑ってしまいます。時間がないときは「あります」とだけ答えます。時間がある場合は、次のようにお伝えしています。
以前、夏休みのラジオ「子供電話相談室」を聞いていたら、「明日ってどこになるの?」と質問してきたお子さんがいました。
回答者は困って、いろいろな角度から自分の思いを伝えていました。「明日」は、駅に電車があったり、宇宙に星があるような場所的な概念ではありません。だから「あるか、ないか」だけで聞かれると困ってしまうのです。
時間の流れを一本のひもに例えると、昨日があって今があり、今があって明日があります。明日とは、まだ迎えていない今のことです。時間がきたら、その人の上に開かれてくる今のことです。では明日はないのかといえば、いま豊かな生活をしている人は、豊かな明日を実感することができます。お浄土も同じことです。「南無阿弥陀仏」と念仏を称え阿弥陀さまの願いに開かれている人は、浄土に生まれていく私であることを実感できるし、時間の経過と共に明日が今になるように、凡夫のこの命が終わったその時に、浄土は私の上に開かれていきます。これは浄土を知る第一のヒントです。
話しの角度を変えます。やはり以前、ラジオ番組で聞いた話です。英語のレッスンの番組でした。講師である外国の先生が、本国の両親に、徳利とおちょこをプレゼントとして送った。しばらくして両親から礼状が来た。その礼状には「とっても素敵な一輪挿しと卵立て、どうもありがとう」と書いてあったとのことでした。人は経験という色メガネですべてを見ています。酒を飲む徳利を知らない人が徳利を見れば、それは一輪挿しの花瓶であり、同様におちょこも卵立てに見えます。
人は同じ物を見ても、その人独自の経験や知識を通して物を見ています。だから同じものを見ても見え方が違っているのです。そして、お悟りを開いた仏さまに見えている世界が浄土です。だから浄土は、あるか・ないかではなく、浄土が見えている仏さまから、どう見えているのかを聞かせて頂く世界なのです。これは浄土を知る第二のヒントです。
お浄土は、凡夫の今の私にとっては、まだ体験していない世界であり、仏の功徳そのものなのですが、その浄土の功徳の全体が「南無阿弥陀仏」の名号となって私の上に至り届いています。そのことを教えて下さったのが親鸞聖人です。「南無阿弥陀仏」の名号は、浄土を知るヒントではなく、浄土の功徳そのものです。
人がもっとも虚しく感じるときは死ぬときかも知れません。いのちの終わりにあって、終わり行くいのちを否定することなく、虚しく終わっていく命ゆえに大悲して止まない阿弥陀さまがましますと、「南無阿弥陀仏」と念仏申すとき、「南無阿弥陀仏」の念仏の中に大悲の阿弥陀仏を実感していきます。それは念仏との出遇いの中に、虚しく終わっていくいのちを尊厳をもって受け入れていく道でもあります。
浄土に生まれるとは、どのようないのちの状態であっても、浄土に生まれるほどに、尊い存在であると、いのちの尊顔が明かになることです。
(4)弥陀一仏を礼拝す   あるがままの今を生きる

一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心をすて、また諸神・諸仏に追従申す心をもみなうちすてて(蓮如上人・御文)

【思い通りになったことだけに幸せを見出すおのれの闇が知らされると、祈ることから解放される】

宗教の恵みは二つの系統があります。 一つは、私の願いをかなえることを利益とする教えです。もう一つは、私の願いがかなうという自分自身のとらわれから開放されていくことを利益として説く教えです。
天武天皇(在位673~686年)は、まつりごとの卜占、天文、造暦、報時をつかさどる「陰陽寮」(おんようりょう)を置き、天体の観測や占星を国家的な事業として立ち上げ、律令国家の運営をはじめました。陰陽寮の寮員には、陰陽師という占い師がいました。陰陽師は、陰陽五行説にもとづく占いによって現世の利益を得ようとするものです。何ごともうまくいくように占ったのです。当時の仏教に期待したものも同様でした。当時、飛鳥寺、四天王寺、法隆寺といった寺院は戦勝や病気平癒を祈願して建立されたものです。現実の苦しみからどう逃れるか、そのために唐から占星術や仏教を受容したのです。
仏教受容当初、仏教も陰陽師と同様に願いをかなえるためのものでした。しかし鎌倉時代にいたって、栄西禅師や道元禅師、親鸞聖人といった仏教本来の目覚め大切にする仏道が開かれていきました。その鎌倉時代に開かれた仏道の中で親鸞聖人が明らかにされた念仏の教えは、自分の愚かさへの気づきを通して、広大な智慧と慈悲の世界に私のこころが解放されていく教えです。それは阿弥陀仏の無条件の救いを受け入れることであり、無条件でなければ救われることのない闇の深さ明らかになることです。
「無量寿経」というお経には、私がいま念仏を称えるという事実の背後にある、豊かな物語が説かれています。阿弥陀仏が称えられる「南無阿弥陀仏」というお念仏の仏になったという物語です。
法蔵菩薩という菩薩が、すべてのいのちあるものを救いたいと発願し、長い間思考を深めていかれました。その結果、「頑張りなさい」「努力しなさい」「悔いなく生きなさい」……などと私に願いや理想を告げるのを止めたというのです。
私にあるべき理想を願うのを止め、その願いを自ら大悲の深さに向け、不完全は者を抱き取れる慈しみの如来になることを念じた。そして「南無阿弥陀仏」の如来となったという物語です。 念仏を喜ぶ者は「南無阿弥陀仏」と称える中に、阿弥陀仏の慈しみに出会っていきます。
世の中には沢山な迷信や神様がいます。その迷信や神様を生み出しているのは、大方が私の思い通りにしたいという自己中心の心です。思い通りにしたいと災難を避けるために迷信にこだわり、神仏に祈ります。阿弥陀仏の光明によって、この思い通りになったことだけの中に安らぎを感じるという私の闇が破られるとき、迷信にこだわり神仏を祈る必要のない世界が開かれていきです。これが仏教本来の恵みです。
(5) 称名念仏  仏さまと共に生きる

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。(親鸞聖人・顕浄土真実教行証文類)

【南無阿弥陀仏の念仏は、阿弥陀仏の存在の証しであり、名のりであり、ぬくもりであり、本願成就の叫びです】

過般、地域にある公園墓地に出勤した折りのことです。墓地の受付に「ご自由にお持ち下さい」と冊子が置いてありました。表紙には「墓石に刻もう一言一句・墓碑銘傑作選」(株・ニチリョク刊)とあります。近年、新設墓地に行くと墓碑に色々な言葉を刻んであるのをよく見ます。その墓碑に刻む言葉を特集した冊子だったのです。実際に刻まれている言葉も紹介されています。【愛・感謝・慈愛・安らかに・絆・平和・希望…】など今風な言葉が並んでします。この冊子の多くの部分は、創作募集の文言です。最優秀賞は【思い出に ほほえみを】です。佳作にユーモアな文言が並んでいます。【水かけずに さけかけよ】【花はいらん 酒は絶やすな】【線香はいらん 煙草くれ】【ここから出せ】【はかなくも大器晩成の夢 崩れさり】、夫から妻へ、妻から夫へ等々、多種多様な言葉が並んでいます。こうした死を視野に入れた言葉は、どのような願いを持って生きているかが見えてくるので面白く読みました。
その中で、私が面白いと思ったのは次の言葉です。いわく【化けてでません】。何が興味を引いたかと言えば、私たちは通常、成仏していない人が化けて出ると思っています。しかし浄土真宗の立場からいうと、成仏した人が化けてでるのです。逆に成仏していない人は、化けて出られないのです。これを仏教では仏の「変化身」ともいいます。
親鸞聖人は「顕浄土真実教行証文類」に、「しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。」とあり、また「正信偈」にも「遊煩悩林現神通」。煩悩の林しに遊びて神通を現ずとあります。阿弥陀さまが私の闇に沈むいのちの上に、私に思われ感じられえる姿となって現れて下さっているということです。その最も具体的な姿が「南無阿弥陀仏」の名号です。
私が一生懸命努力して仏さまに近づいていくのではなくて、阿弥陀如来が一生懸命になって私の称える「南無阿弥陀仏」になってくださった。言葉を変えていえば、阿弥陀さまが努力して「南無阿弥陀仏」と私のいのちの上に化けてでてくださったということです。私は「南無阿弥陀仏」と念仏を称えながら、早、阿弥陀さまの働き・願い・慈しみ・功徳の真っ只中での生活であったと、「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀さまとご一緒の人生を歩んでいく。これが浄土真宗という仏道です。
(6) 在家仏教  家族と共に生きる

在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり(蓮如上人・御文)

【自らの愚かさへの目覚めを通して、自己への執着から解放されていく大乗至極の教え】

私は私服で郵便局に行き、振替用紙で送金をお願いしました。送り主は「西方寺」です。ややしばらくして「にしかたてら」さんと局員が私のことを呼びます。これは本当にあった話。有髪で私服の私は住職には見えなかったのでしょう。坊主頭というほどです。僧侶は坊主に決まっています。
ところが浄土真宗の僧侶は、すべてではありませんが有髪です。
妻帯を認め剃髪をしないのは浄土真宗だけですが、現在では他の宗派の僧侶も明治政府が明治5年に僧侶の肉食妻帯、蓄髪の許可が発布されて公然にできるようになりました。それまでは坊主頭が法律で決まっていたのです。肉食妻帯だけではなく、江戸時代は法度で僧侶の全ての行為に規制が加えられていました。
僧侶はなぜ坊主頭にするのでしょうか。
親鸞聖人の師・源空聖人の言葉に「三つの髻(もとどり)を剃り」という言葉があります。髻とは長い髪を頂きに束ねたところのことです。飛鳥時代・奈良時代には中国文化が輸入されて、冠によって身分の上下を示すようになりました。そのため冠をかぶるのに便利な髪型として髻が考え出され「冠下の一髻」(かんむりしたのいっきつ)、別の名を冠下の髻(かんむりしたのもとどり)として男子の間に結ばれました。だから髻を剃るとは、髪を剃ることであり、身分の上下という世間を捨てるという意味です。三つの髻とは「勝他・利養・名聞」のことです。人に勝ちたいという思い、豊かな暮らしと名声、人のどう思われているかという名誉欲のことです。髪を剃るとは、そうした世間の価値観を捨てて真実を求めることの象徴です。
なぜ世間の価値観を捨てるのかといえば、それはまず修行の環境を整えることです。仏教の修行は戒・定・慧の三学といって、規則正しい生活をし、心を安定させ、悟りを開くことを目ざします。そのための第一歩が一般社会と距離を置くことです。その一つの形式が剃髪です。
浄土真宗の教えは、私の力を拠りどころ戒・定・慧と進んでいく教えではありません。阿弥陀仏から信心の智慧を賜り、自らの愚かさが知らされ、生活が放逸にならないよう報謝の生活をします。そのために悟りの前提としての戒律を保つことがないのです。規則正しい生活が、悟りの智慧に結つかないという人間理解にたって仏道が組み立てられている教えなのです。
正しい生活が悟りの智慧に結びつかない者を凡夫といいます。その凡夫が仏さまと同質のいのちにどう開かれていくのか。それを問題としているのが浄土真宗です。
家庭生活を営み、戒律という生活に規制を加えることなく在家のままで、自らの愚かさに対応した広やかな阿弥陀仏の大悲と深い願いに救われていく教え、それが浄土真宗です。
(7) 聞の宗教  阿弥陀仏の本願を生きる

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(親鸞聖人・顕浄土真実教行証文類)

【すでに恵まれていたことへの気づきは、聞かせて頂く中に開かれる】

 阿弥陀仏は、なぜ「南無阿弥陀仏」と名号となったのか。なぜ「無条件に救う」という慈しみの仏様となってくださったのかを聞かせていただくことが大切です。
親が子どもの成長に対して願いを持ちます。親の願いは子どもの可能性でもあります。親が将来は野球選手にという子どもへの願いを持っていれば、その願いを実現できる可能性を持った子どもの姿があります。そして子どもに対する親の願いは、子どもの成長と共に変わっていきます。
ところが無条件に救うという阿弥陀仏は、私に何も求めないというのです。その願いの背後に何があるのかといえば、仏になる可能性ゼロの私の存在があります。しかし私はといえば仏になる可能性ゼロの私を、仏になる可能性のある確かな存在だという思い込みの中で生活しています。ところが阿弥陀仏の可能性ゼロの私を救うという教えを聞いていると、その阿弥陀仏の本願を通して、その本願を起こさずにはおれなかった私の闇の深さが明らかになっていきます。
念仏を申すことが阿弥陀仏の働きであったとの理解は、私は念仏を称え仏を礼拝することには無縁な人格であるという自身の闇の深さへの気きがあります。阿弥陀仏の願いを聞くとは、私の本性が明らかになることでもあるのです。
(8) 報恩行 感謝の心で生きる

知恩報徳の益(親鸞聖人・顕浄土真実教行証文類)

【幸せは目的が達成された所い生まれます。感謝の心は幸せの証しです】

 希望が一切ない。幸せはそのような形で私の上に成就していきます。希望や目的があるというのは、現実に不足があるという証しでもあります。また希望や目的は、許された時間の中に成立します。死は、この世での希望や目的をもつことが許されなくなる時です。だから希望や目的に向かって生きるという生活は、明日もいのちがあるという仮想の中に成り立っているのです。死のおよんでも、そのときの存在を肯定していける心は、目的に向かう生き方ではなく感謝の心しかありません。感謝の心は、これから幸せを得るという未来に幸を結ぶ思いではなく、すでに恵まれてあったことへの気づきの営みです。
世間の価値観と仏教の価値観は逆さまの場合がよくあります。その一つが、世間の常識は「求める」ことです。お金を求め、健康求め、友人を求め、名声を求め、愛情をそそぐ人を求めます。ところが仏教の常識は出家にしても、家を捨て、名声を捨て、財産を捨て、仕事を捨て、美食を離れて生活に規制を加えていきます。この「捨てる」ことに意味を見い出す考え方の中には、いくつかのメッセージがあります。
その一つは幸せのキーポイントは、豊かさではなくゼロの視点にあるということです。
私たちの生活の中には失ったとき初めてその価値を知るということがあります。連れ合いを失う。子供が死別する。失ってみて存在の値打ちが明らかになります。外国へ行って初めて日本の良さを知ることも同しことです。
二つ目には、ゼロに近づくことによって物の価値が高まります。いわゆる希少価値です。いつも会う人は出会いそのものにはあまり価値がありません。ところが、外国のある町で偶然にもいつも会う人と出遇う。その場合、出遇いの価値はぐーんと高くなります。めったにあり得ないことだからです。私の日常を当たり前として見るか、めったにないこととして見るかによって、まったく異なった人生が開かれます。
浄土真宗は阿弥陀仏の働きによって凡夫の私が明らかになる教えです。つまり私がゼロであることに目覚めていく教えです。
親鸞聖人は念仏者の利益として「知恩報徳の益」という恵みをあげておられます。知恩報徳とは「ありがとう」と感謝できる心を賜ることです。これがご利益だというのです。通常、感謝の心は、何かご利益を頂いて、それに対する私の思いのことです。しかし親鸞聖人は、感謝の心そのものが仏さまから頂く恵みであると味わっていかれたのです。
その背景には「自分の無力さの体験」があります。この無力さの体験こそ、自我からの解放そのものだといえます。ゼロであることに目ざめて生きる。自分がゼロであればすべてが賜り物です。これが浄土真宗の感謝の生活です。
(9) 御同朋御同行 共に仏の子として生きる

親鸞は弟子一人ももたず候ふ(親鸞聖人・歎異抄)

【念仏は阿弥陀仏と私のいのちのハーモニーです】

 親鸞聖人は、東国での20年におよぶ伝道は、寄り合い談合を中心として縁を結ばれています。心に灯をともされた民衆は、聖人の直弟子は四十四人、孫弟子のなかでお会いして教えを受けたものと、聖人の手紙や、その他の書面に名まえがでている人を合わせれば、七十人前後の門弟があったといわれています。それらの門弟がまた、それぞれの在所で聖人の教えをひろめていかれました。性信房を中心とする横曽根門徒、順信房を中心とする鹿島門徒、真仏房を中心とする高田門徒というようにひろがって、念仏の同行は十万をこえたともいわれます。
しかし、親鸞聖人はその門弟の中で、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」と共に釈迦諸仏の弟子としての自覚にたって生活されました。
実際に京都へ帰られた晩年、東国の門弟に手紙を多数出したおられます。手紙の相手の対する尊敬の念は、言葉使いの上に知ることができます。たとえば
【御文たびたびまゐらせ候ひき。御覧ぜずや候ひけん。なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ】(親鸞聖人ご消息第四通)
「御」という文字の多さに驚きさえ感じます。自分がへりくだるというよりも、相手を尊敬をもって接しておられている証拠です。
それは、ひとりの人が念仏申す身となることは、これはひとえ阿弥陀仏の働きの結果であるという見極めがあるからです。
「南無阿弥陀仏」は仏と近づくための呪文ではありません。「あなたのいのちは、早このように、収め取りました」という阿弥陀如来の名のり。それが念仏です。
浄土真宗の者は、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来と出遇っていきます。
「無条件に救う」。それが阿弥陀如来の願いです。この願いは、無条件でなければ救われない人間であるという私の闇の深さを言い当てた言葉です。そしてその私を慈しみで満たすという大悲のお言葉でもあります。
不実なる私と真実なる阿弥陀さまとの距離を「阿弥陀経」には、「これより西方十億万仏土過ぎたところに世界あり」と示されています。とほうもなく遠い存在だとあります。しかし阿弥陀さまの智慧の働きによって、不実なる私の姿が明らかになっていく。このところを「観無量寿経」には「ここを去ること遠からず」と示されています。
仏と私との距離を縮めて下さるのが「南無阿弥陀仏」の念仏です。「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏の働きによって恵まれる仏さまと私のハーモニーです。その阿弥陀仏の無量のいのちを宿した方、聖人の弟子にたいする敬虔な態度はこうした見定めあります。
(10) 追善供養の否定  亡き方を仏と拝んで生きる

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず(親鸞聖人・歎異抄)

【念仏は、亡き人のための営みではなく、亡き方から頂いた最高の宝物です】

お墓を建立したときの法要を「建碑法要」と言います。過般、その建碑法要の依頼がN家からあり墓地へ出勤しました。管理棟に入ると三十代前後のご夫婦がおられ、手に小さなお骨を持っていました。聞くと5ヶ月の死産だったそうです。医師から遺体はどうするか聞かれ、家につれて帰る旨を告げ、家に帰ってから火葬にして半年間家に安置してあったとのことでした。そしてこのたび、ご両親がお墓を立てられたので、埋葬の段取りとなったのだそうです。
墓前で過去帳を拝見すると、「友耶」という子どもの名前がつけられていました。法名がついていなかったので、帰り際に「よろしければ法名をお付けしますよ…」と伝えしお別れしました。夜になって「ぜひ法名を」との連絡を頂きましたので、名前の友耶の「友」をとり、「仏説観無量寿経」にある「勝友」という法名をつけました。そして法名のお経の出拠や意味を書いた文面に、手紙を添えてお送りしました。
手紙の核心は「もしあなたが、なき子を思い、その短かった存在を通して、いのちの不思議やいのち尊さを思うならば、いまあなたにいのちの不思議いのちの尊さを思わせた存在として、いまここに居て下さるのですよ…」。そんな内容の手紙でした。
そしてひと月後のある日曜日のことです。法務を終え、寺に帰ると、Nさんからの手紙がおいてありました。お寺を訪ねてくれたのです。私が不在だったので、その思いを手紙に綴って置いていかれたのです。その手紙には、なかなか子どもが宿らなかったことや、子どもが宿った時の嬉しかったことなどが認めあれ、こうありました。
「わが子は、さまざまなものを残して、また空に旅立ちました。○○と初めて対面したその日が、彼との別れの日でもありました。……納骨の前の1週間は、毎日遺骨を抱き沢山のお話しをしました。一度も抱っこすることもなく、一度もお乳をあげることもなかった息子、私が彼にしてあげたことは何もありませんでした。でも彼から多くのことを学びました。‥今は私たちを親として選んでくれた○○に恥ずかしくない日々を送らなくてはと思っています。目には見えない友耶に支えられながら…」。
Nさんは、死別の悲しみや、どうにもならない現実の中で、その現実を通して深められていった心、気づいていったことがあったのでしょう。そうした出会いがあったとき初めて、「彼から多くのことを学びました」といい、「目には見えない友耶に支えられながら」という言葉が生まれていったのだと思われます。
私たちは苦しみの中で、その苦しみや悩みを通して、今まで気づかなかったことに気づき、より深い、より豊かなものと出合っていくということがあります。その苦しみを通して、より豊かなものと出会えたとき、その苦しみが意味を持っていきます。苦しみは無駄なものではありません。苦しみは新しい成長の扉を開く意味のある営みだとも言えます。
さてもしNさんが、5ヶ月の死産という事実を不幸な出来事であったという思いがすべてであったとしたら、この5ヶ月のいのちは両親に「不幸な目にあった」と思わせる存在としてこの世に縁を持ったことになります。頂いたご縁をどのように受け止めていくか。頂いたご縁を限りなく豊かなものとして受け止めようとする考え方が、亡き方を仏さまと仰いでいく浄土真宗の考え方なのです。

第3章 親鸞聖人の生涯

▽末法の世

弱肉強食の生命の連鎖は 人の世を蝕ばみ混迷を深め 仏教を飲み込んでいた 世は末法だった

平安時代の末、平氏・源氏の二大武士が台頭していました。武力が朝廷を動かし、民衆は目先の自分だけの利益を考え、猜疑心と、謀略、うらぎり、人を制する力だけを頼りに暗黒のときを生きていたのです。その荒れ狂う時の流れを、後に親鸞聖人の戎師となった慈円和尚は、日本の歴史をリアルタイムで語りきった国史最初の歴史書ともいうべき愚管抄に「武者(むさ)の世」となったと語っています。弱肉強食の生命の連鎖は、人の世を蝕ばみ混迷を深めていたのです。巷は権力闘争の嵐は、そこかしこに巻き起り、地震・大火・飢饉・疫病とまさしく「末法」に突入したことを実感させました。
平安から鎌倉期にかけての民衆は、『周書異記』(中国の史書)により永承七年(1052)から末法に入るとする説を広く信じていました。仏法が滅びるときがきたという危機感、流行病の広がり、度重なる天災地変、加えて平家のおごり、人々は刹那的な喜びに始終し、希望のない日々にあえいでいたのです。
末法とは、仏教が、釈尊入滅後、正法・像法・末法という三つの段階を経て次第に衰退していくという考え方です。正法とは、教(教え)と行(教えの実践)と証(得られる証し)の三つがすべてそろっていることをいいます。像法とは、教えと修行はあるが証を得る者がいなくなるという形式的に仏教が継承されている時代のことです。そして最後に到来するのが末法です。釈尊の説かれた教えだけが残る。釈尊の入滅を起点として、時の隔たりとともに仏教が次第に衰退し出家者も堕落するという考え方です。その末法に親鸞聖人は生まれました。幼名松若丸、長門国壇ノ浦で源平の合戦により平家は滅亡(1185)した年をさかのぼること十二年前(1173)のことです。

▽ご誕生

金色に輝く法界寺の阿弥陀仏にみもと 日野の里に聖人は誕生された

聖人は、平安時代の末にあたる承安三年(1173)四月一日、太陽暦にして五月二十一日、京都の東南にあたる日野の里に誕生しました。幼名を松若丸といい、父は日野有範、生母は、吉光女といったと伝えられていますが詳細はわかっていません。日野家は、藤原北家の流れで、古くから洛南日野に領地がありました。五代前の資業が、日野の地に法界寺を建てて日野氏を称したのです。父有範は、皇太后宮大進(こうたいぐうのたいしん)という前天皇の皇后の宮廷で大進というお役を務めていました。大進とは律令制で、四等官中の第三等官です。

▽お得度

゙明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に 嵐の吹かぬものかば権力闘争の嵐の中での得度であった

 父、日野有範は、出家して三室戸大進入道とよばれ、日野から四キロほど南に行った三室戸に身をひそめられたと伝えられています。藤原氏と平氏が権力争いの狭間で日野家一門に不利なできごとがおこり、役職を辞任して出家されたようです。
九歳の松若丸は、父の出家とともに、伯父である範綱卿に手をひかれて、青蓮院にて慈円和尚を訪ねられます。
慈円は後に関白になる九条兼実の同母弟です。当時、青蓮院の門主は、鳥羽天皇の第七皇子である覚快法親王でした。慈円は、永万元年(1165)延暦寺青蓮院門主覚快法親王のもとに入室し仁安二年(1167)出家し法名は師の快をもらい道快と名のっていました。百か日練行や無動寺の千日入堂などをつとめ、この年(養和元年)法印に叙せられ、慈円と改名していました。慈円は後に青蓮院第三世門主となりますが、たびたび青蓮院を宗務の場所としていて、松若丸の得度にあたり、得度にふさわしい場所として慣れ親しんでいる青蓮院を選んだようです。
青蓮院は東山の緑に包まれた粟田口にありました。粟田口とは、東山三条白川橋から蹴上(けあげ)までの間に京都に出入る道があり七口あり、その中の東海道の山科から入る要地です。青蓮院は比叡山、東塔の南谷にある青蓮坊の支院でした。
師の慈円が「今日は日が落ちてしまった。明日の朝にでも、得度してしんぜよう」というと、松若丸は「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に 嵐の吹かぬものかは」と和歌を読み、その日(1181年)のうちにお得度を受けました。そして範宴と名のります。

▽大原問答

師の法然房源空は 洛北大原の地で、歴史の表舞台に登場した

範宴(親鸞)が比叡山にのぼった5年後(文治二年・1186)の秋、京の町をはさんで高尾とは対岸の東にある洛北大原の勝林院では、第六十一世天台座主顕真僧正が中心となり、源空房法然を招き浄土教について論議がおこっていました。
源空五十四歳、専修念仏を初めてすでに十二年が経っていました。時の経過とともに、一筋の念仏の流れが大河になろうとしていたのです。三論宗の明遍、法相宗の貞慶、天台宗の証真、湛★など、当代一流の僧が参百余人を集まっていました。源空房法然に従うものは東大寺大仏建立の勧請を行った重源以下三十四人です。二千人近い群衆が勝林院を囲んでいました。
問答は一昼夜に及びました。法然房源空は各宗の成仏法の筋道を明らかに説き述べ、これらの法はみな義理が深く利益は大きいが、人間の能力が法に相応していない。「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の三部の経典に示される専修念仏の法門は、智者・愚者を問わず、念仏の一行によって、成仏が可能となる。それは阿弥陀仏の力用によるからであると、理を尽くし経典の証拠をあげて論じられた。ついに満参集の僧は、ことごとく感銘し、ことに顕真僧正は感極まり、声高々に念仏をし法然に帰依します。当時14歳の範宴が、源空聖人の名を耳にした初めてのときであったかも知れません。
源空聖人はその後、建久九年(1198)、熱心は帰依者である九条兼実公の勧めもあり「選択本願念仏集」を著しました。諸行の中から念仏を選び、念仏がなぜ勝れた行なのかを述べ、専修念仏の法義を説いています。しかしこの出版は秘密出版でした。著書の最後に「一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ」、ご覧になられたら、壁の奥に隠すようにしまし、人目に触れるような場所に置かないで下さいと書き置かれています。無条件の救いを説く他力念仏の教えは、美醜賢愚、老若男女等等、権力や名誉、財力といった力の優位性が、倫理道徳をつくっている社会では、受け入れられないことを見抜いていておられたのです。

▽比叡山での修行

比叡の山の静けさとは裏腹に 煩悩の炎は範宴(親鸞)の身もこころも焼き尽くしていた

伝教大師最澄は延暦七年(788)に比叡山を開創され、「国宝とは何者ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝となす」と国を護り人々を導く人材の育成を目標としました。しかしはからずも鎮護国家の役割を担ってきた僧たちは、鎮護国家という意識が増長と慢心を生み出し、権力と暴力の徒に変質し、僧兵という武装集団を組織していました。寺域は治外法権です。その特権が無法地帯を生み出していたのです。僧兵の存在は「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」と語った白河上皇(1053~1129)の言葉に拍車をかけ権勢を誇示していました。生命の弱肉強食の連鎖は、釈尊が説かれた仏法まで飲み込んでいたのです。
範宴は、比叡山では堂僧でした。当時、比叡山の僧は学生と堂衆と堂僧がありました。堂衆と堂僧は当初同じでしたが、平安中期頃より、貴族が出家するに際して従事する武士も主人に習って剃髪し、仏事の雑役などに従う堂衆となっていました。もとより道心があっての出家ではありません。法の制裁を受けない立場であることが次第に堂衆を暴走させ山法師となっていきました。これに反し、堂僧は学生として修学の積んでいくための資力を持たないものが、修行を専らに勤める僧として仏事を勤め、その傍らに勉学する人たちでした。
範宴は、比叡山ではおもに常行三昧堂を勤めておられたようです。常行三昧堂は、常坐・常行・半行半坐・非行非坐の四種行法の一つで、念仏をとなえながら、本尊阿弥陀仏の周囲をまわり続ける行です。行中は堂内の柱間にしつらえた横木をたよりに歩たり、天井からつり下げられた麻紐につかまって歩を休みます。常行なので決して坐臥するが許されません。最澄の説いた『摩訶止観』には、九〇日間を一期とするとありますが、鎌倉初期の当時は、十七日間を一期として行じられていたようです。
範宴は山に登ってから20年、嵐の中で揺れ動く立ち木に登り、ふり落とされまいとしがみつくように修行と学問に専念していました。しかし山には出会うべき師もなく、真実を求める環境とはほど遠い状況でした。

▽六角堂参篭

光明は夢の中で救世観世音菩薩の声として届けられた

範宴(親鸞)は、比叡山に上って20年、覚りの体験を味わうことなく山を下りることを決意します。すでに二十九歳になっていました。そして生死解脱の解決のヒントを六角堂に求めました。六角堂は頂法寺といい、聖徳太子が自ら六角の段を築いて救世観世音菩薩を本尊として安置した日本仏教最初の寺であると信じられていました。観音菩薩は阿弥陀仏の脇侍菩薩で、阿弥陀仏の慈悲の働きを担う菩薩です。
それは堂にこもって九十五日目のことでした。午前四時頃、範宴は夢うつつの中にいました。その眠りの闇の奥底から届けられるような言葉が聞こえてきたのです。その言葉にこころを集中すると、そこには六角堂の救世菩薩が、身に白い袈裟をまとい目鼻の整った清らな清僧の姿で、大きな蓮華の上に座っておられました。その姿が目に入ると同時に、菩薩のお告げが聞こえてきたのです。
「行者よ。もしあなたが自分の意志や考え、努力ではどうにもならない人間の性によって、戒律で禁じられている女性との交わりも持つならば、その女性こそが、この私、救世菩薩の化身であると思いなさい。人間は自分の煩悩を通して、この世で最も豊かなもに出会っていくのです。そしてその煩悩に導かれて浄土に生まれていくのです。これは私の願いであり誓いです。行者よ。このことを深くわきまえて、すべての人たちにこのことをお話ください」。
範宴は、夢の中にありながら、御堂の東方をみれば、山々が連なり、その中の高い山に数千万億の人たちが群集していました。自分がそこに集まっている人々に救世菩薩の言葉を説き聞かせ終わったと思ったら、ふと夢の中にある自分に気づいたのでした。そして生涯の師となる法然房源空を訪ねることとなります。

▽雑行を棄てて本願に帰す

賢者・愚者ともに迷いの連鎖から開放される道に出遇う

源空聖人は東山の吉水にある庵で法を説いておられました。吉水は青蓮院の境内で真葛原(まくずがはら)というところで、良い水の井戸があったので人は、この地を吉水といいました。範宴(親鸞)は、雨の日も風の日も六角堂同様に百日間、吉水へ通いました。
源空聖人の教えは、今まで聴いたことがない他力の念仏でした。範宴は、師の言葉を一寸も聞きもらすまいと耳を傾けました。他力の教えは、難行苦行よりも念仏、念仏も常行三昧のように身と口とこころの全身で行ずる念仏より、口で称える称名の方が、阿弥陀仏の願いにかない勝たれた行あるという。今まで体得した仏教や社会の常識をもっては、計り知れない教えでした。
師の説くみ教えは明瞭でした。また人間のすべてのこだわりを理解したぬくもりが感じられました。
弟子「源空さま、念仏の時、睡魔におかされて、念仏を称えることを怠ってしまうのですが、何か工夫がありましたら教えてください」
師「目が醒めたら、念仏を申しなさい」。
弟子「女性を思う心が勝って念仏がおろそかになってしまうのですが、どのように心得たらよいでしょうか」
師「お念仏が大切です。お念仏は尊いものです。もし妻を娶った方が念仏を申しやすいのであれば妻を娶り念仏しなさい」弟子「戒律はどこの範囲まで守ったら良いのでしょうか」
師「末法の世の中には、持戒がないのだから破戒もありません。ただあるのは名ばかりの僧です。ですから破戒とは、持戒とはなにかを論議する必要はありません。阿弥陀仏の本願は、そうした凡夫のためにおこされました。ですからただ名号を称えることが肝要です。その中で、もし戒律を守ることがあったとしたら、仏さまのお育てがあればこそと喜びなさい」
時に範宴齢二十九歳、東山吉水での出来ごとでした。ここにこころの大転換を体験します。「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(「顕浄土真実教行証文類」後序)と感銘深く記されています。源空聖人、六十九歳、門弟となった範宴は名を綽空(親鸞)と改められました。

▽源空聖人のもとで

源空聖人の念仏理解の真意を受け継ぎ 念仏の奥義を体得する

源空聖人の元で書き写された『観無量寿経集註』 『阿弥陀経集註』は、綽空(親鸞)の青年時代の筆跡をとどめる貴重なもとして現在に伝えられています。『観無量寿経』と『阿弥陀経』の本文をたくましい筆致で写し、その行間や上下の空白に、関係のあるいろいろな仏典から、参考になることばがぎっしりと書き入れられています。この頃から綽空の実名のほかに「善信房」という房号を使い始めます。
また源空門下で、信心についての諍論もありました。門弟との間で、「源空聖人の信心と善信の信心とおなじかちがうか」の論争になり、師の源空聖人に答えを仰ぎます。師は「自力の信ならば、智慧のちがいや、念仏の経験の長い短いで信心もちがうが、他力の信は如来よりたまわった信心だから、みなおなじです」とお言葉を頂き、師の念仏理解の真意を受け継いでいたことが理解できます。
元久二年(1205)四月、綽空は師から「選択本願念仏集」の書写を許されました。またその年の七月には、師の真影に源空聖人真筆の銘を受け、このとき綽空の名を親鸞と改めらあれました。時に親鸞聖人三十三歳の時のことです。
親鸞聖人はこれから二年、生涯の中で最も密度の濃い、生涯最良の時を過ごします。

▽専修念仏への弾圧

民衆不在の既成教団は 真実を恐れ国家や権力を本尊としていた

源空聖人の説かれる念仏の教えは、都で盛んになっていきます。それを快く思っていない比叡山や奈良の僧侶たちは、ことあるごとに吉水の教団を非難してきました。元久元年(1204)になると延暦寺の僧徒たちは、一部の念仏者の非行を口実にして、吉水教団の解散を要求してきました。
それに対して源空聖人は、ただちに七ヶ条の起請文を書き、門弟一八九人の署名をそえておくられました。延暦寺もそれで一応なっとくし、混乱なく治まりました。
そして翌年になると、こんどは奈良の興福寺から専修念仏を禁止するよう、九ヶ条の奏上文を朝廷にさしだしました。
当初、興福寺側の強い抗議をうけた朝廷は、両者の板ばさみにあって苦慮しました。その結果、現在、源空一門に加えられている批難は門弟一部に対するもので、源空の真意ではないと事を荒立てることをしませんでした。この興福寺の訴状の件はうやむやに終わり、専修念仏も市民権を得たかに思えた頃、大きな騒動が起ったのです。
源空聖人の高弟である安楽と住蓮は、美男子で美声の持ち主でした。源空門下では、源空聖人が師と仰ぐ善導大師の往生礼讃に節をつけて称えることが、民衆に受け、特に安楽と住蓮が行う法会が人気があり、とりわけ女性の信者の参集が多くありました。
建長元年(1206)の暮れのことです。東山、鹿ヶ谷で別時念仏を催すこととなりました。別時念仏とは、念仏の行者が、特別の時日・期間を定めて称名念仏をすることです。集いは盛況でした。その聴衆の中に偶々、後鳥羽上皇(1180-1239)の寵愛をうけていた伊賀局ほか院の女官も数人混じっていたのです。おりしも最盛期にあったその熊野本宮が、この二月(1206.2)に焼失し、上皇の見舞いを兼ねた熊野御幸中でした。御幸には、往復におよそ1ヶ月費やされますが、その間の出来ごとだったのです。数日すると、敬虔な念仏の集まりが、法会を隠れ蓑に伊賀局が安楽と住蓮と密通を働いたと都中のうわさになってしまいました。そしてこのうわさが後鳥羽上皇の耳に達したのです。それまで、興福寺や比叡山の訴状に対してあえてことを荒立てなかった上皇でしたが、その噂を信じた上皇は怒りのあまり、専修念仏に対して大鉄槌を下したのでした。

▽聖人流罪となる

国家の権力から離脱し 俗名を藤井善信と名のり、ただ念仏の生活を実践する

承元元年(1207)二月、宣旨が下ります。安楽や住蓮らは死罪、源空聖人は還俗させられ藤井元彦の俗名が与えられ土佐へ流罪。親鸞聖人は同様に還俗させられ藤井善信と名のり越後へ流されることとなりました。僧を罰することはできず、還俗させて罰したのです。親鸞聖人三十五歳の時のことです。
師の源空聖人は、「私は京の都で専修念仏を語り始めてからすいぶんと歳月が経ちます。前から念仏の及んでいない地方へおもむいて念仏を伝えたいと願っていました。この度ははからずも四国の地へ行くこととなりました。年来の宿願、かえって尊いご法縁と感謝しております」と流刑の地へおもむきました。
親鸞聖人は「聖道門の諸寺の僧侶たちは、教法にくらくて真仮の別があることを知らず、都の学者たちも、行法の正邪の区別をわきまえない。こういうわけで興福寺の学僧たちは、太上天皇(後鳥羽)今上天皇(土御門)の御代、承元丁卯の歳、仲春上旬のころ奏達した。主上も臣下の者も、正しいおきてによらず正義に違って、忿り怨みの心を起こした」と、『顕浄土真実教行証文類』の後序に激しい調子でしるしています。

▽越後での生活

自然の猛威と天地の恵みの中で家族と共に生きた

聖人は還俗を機縁として妻、恵信尼との契りを結びました。恵信尼公は三善家の出身で、三善家は越後に所領がありました。越後での生活は三善家の庇護があるとはいえ、京都とから比べると、冬には吹雪の吹き込む素朴で簡素な家屋での飾る必要のない生活でした。そして四年目の建暦元年(1211)三月、聖人と恵信尼公との間には子どもが生まれました。子どもが生まれると子どもを中心に、大地を耕し、太陽と雨の恵みの中で、また自然の猛威に身をゆだねるようにして暮らしました。聖人は、流刑の地で「僧に非ず、俗に非ず」と「愚禿」と名のられています。
「僧に非ず」とは、国家権力による僧ではなくなったことをあらわし、「俗に非ず」とは、律令僧のかたちはとらないけれども、内には深く如来を信じ、外にはその喜びを、何はばかることもなく伝えてゆく念仏者であることの表明です。また「愚禿」の名りも、単に、不当な弾圧を加えた外部の権力に向かって表明されただけのものではなく、自分自身に向けられた内省の言葉でもありました。「禿」ということは、外見は僧の姿であっても、その心と行いは世俗の人とかわらない、みにくい、あさましい凡夫であるということです。
そして親鸞聖人は、師の言葉の通り、流罪という逆縁を転じて、都を遠く離れた民衆に如来の本願を伝える良縁とし、ただ念仏の生活を実践されました。

▽東国への旅

東国への伝道の決意は 未来永劫の人々への浄土真宗の開顕でもあった

源空聖人は土佐に配流となって、八ヵ月後に赦免の宣旨がくだります。師を庇護する有力者たちの奔走と、後鳥羽上皇の発願による最勝四天王院の御堂供養による大赦の結果でした。しかし建暦元年(1211)までの四年間は、京都に入ることが許されませんでした。建暦元年(1211)十一月、源空聖人の京への帰洛の宣旨が下ります。それは親鸞聖人が越後へ来て五年目のことです。その時、親鸞聖人にも赦免の宣旨が下りました。
しかし歳が明け建暦二年(1212)正月二日より、源空聖人は床につき、病床にあって絶えず念仏を称えていましたが、その月の二十五日に往生しました。齢八十年のご生涯でした。
それから三年が過ぎた頃のことです。善光寺は、治承三年(1179)の焼失に際して、源頼朝は文治三年(1187)信濃の御家人および目代に対して、勧進上人に助力し尽力すべきことを命じ、この命によって建久二年(1191)に本堂が完成しました。しかし五重塔の再建(落慶供養1237年)など、勧進聖の存在は全国的規模な及び、聖人は、勧進聖となって東国に行くことを決心しました。そして建保二年(1214)、四十二歳、妻子をつれて、七年間すごした越後をあとにし、信州の善光寺を経て、東国の常陸(茨城県)に移られました。

▽東国での聖人

呪術一色の民衆に対して 人間の弱さや闇に怯える心の弱さに共感し 阿弥陀仏の慈しみを説いた

親鸞聖人は東国・下妻の小島という在に着き、人々の招きに応じ、草庵に住し一定期間そこに滞在したようです。そして下野や下総を中心に、武蔵の国から奥州まで足を運び法を説きました。東国での聖人の生活は、生活そのものが伝道でした。縁にしたがって出会う人、あつまる人と、身分の上下をへだてることなく接し、あるときは道ばたのお堂で、またあるときは民家の炉ばたで、膝をまじえて人々の苦しみに耳を傾け、念仏の教えを語り合いました。
庶民にとって山の神や仏教は、豊作の祈り、雨乞い、また疫病退治の祈祷など、目に見えない力を恐れるという冥界との対話の手段として役割を果たしていました。聖人は、呪術的な宗教に染まっている民衆に対して、その民衆の恐れを否定することなく、むしろ人間の弱さや、闇に怯える心の弱さに共感し、その私のための阿弥陀仏の慈しみであることを説いていきました。民衆は初めて自分の弱さ、己の闇の深さと直面し、その自分をかけがえのない存在であると受け入れてくださる阿弥陀仏の慈しみ中に人間性を回復していきました。

▽顕浄土真実教行証文類を顕す

歴史のスケールをこえ民衆の灯火となる浄土真宗立教開宗の根本聖典を著す

京都では専修念仏者への弾圧が続いていました。念仏停止に躍起な比叡山の宗徒たちは、都の盗賊や下手人の多くは、悪事を働いても往生の妨げにならないと説く念仏者の犯罪だと非難し、自ら手を下して念仏者を糾弾するようになっていました。それがエスカレートして、後に嘉禄の法難(嘉禄三年 1227年 親鸞55歳)という弾圧となりました。源空聖人の高弟である隆寛・幸西などが流刑となり、法然の墳墓が破却されかかり、『選択集』の版木をすべて集め消却されるなど、聖人が流罪となった承元の法難よりも厳しいものでした。
そうした戦乱を極まる京の都をよそに、東国の聖人は念仏の教えを深め、人びとにその教えを伝えていました。聖人は、昼間のうちに目的の在所まで行き、仕事が終わった武士たち、農民たちに夜になってから語り合う。一日、あるいは二,三泊そこに止まり、また自分の草庵に向かって帰るといった日々を送っていました。古くから建立している如来堂や太子堂等の小堂や、民家を少し改造した道場が、その拠点となっていました。師の命日である毎月二十五日には、聖人の草庵に念仏者が集まり、源空聖人を偲び念仏の教えを語り合っていました。後に浄土真宗立教開宗の日時を、「顕浄土真実教行証文類」の草案が一応整った親鸞五十二歳の元仁元年(1224)の年としています。この年は源空聖人の十三回忌にあたりました。またこの歳に、末女、覚信尼が生まれています。
聖人は東国で、呪術や加持祈祷を否定しました。しかし呪術に救いを求める人間の弱さまでは否定しませんでした。東国の人びとに、その聖人の態度が新鮮であり、尊くも思われたことでしょう。今までこころのひだの裏側、人に見せられない暗部の声に耳を傾けてくれる人は皆無だったからです。

▽京都帰洛

顕浄土真実教行証文類をはじめ 著書の執筆や師の源空語録をまとめる

親鸞聖人は六十三歳となり、京都へ帰ることを決意します。後の覚信尼と名のる末女をつれて京都へ帰ります。妻・恵信尼公と他の子どもは、京へは同伴せず、越後に行き、恵信尼に父・三善為教から相続した所領を生活の基盤として、終生を送くることとなります。
二十八年ぶりの京都でした。京には恵信尼公との結婚前に生まれ子どもが二人いました。長女は父・親鸞が帰郷してしばらくして母の越後に移り住み小黒で暮らしています。長男である善鸞には親鸞が京と帰った翌年、孫が生まれました。東国から一緒に帰ってきた覚信尼は、のちに太政大臣となる久我通光に侍女として奉公に出ます。しばらくして覚信尼も結婚し子どもが生まれました。覚信尼が十四歳の時です。子どもの名は覚恵といいました。ゆったりと流れる時間の中で、聖人は浄土真宗のご法義を明らかにするために「顕浄土真実教行証文類」の推敲を始め、著述活動に専念しました。「顕浄土真実教行証文類」の脱稿をみると、「浄土和讃」「高僧和讃」(1248年(76歳)、「唯信抄文意」(1250年・78才)、「正像末和讃」(1258・86歳)と次々に著述していきます。また東国の門弟からの手紙による質問や、来訪面談など、凝縮した日々を送ります。

▽善鸞義絶

息子・善鸞の義絶を通して 東国の混乱をただす

聖人が京都に帰ると、時間の経過とともに、東国の念仏集団の間に混乱が生じてきました。浄土真宗の教えを、自分勝手に解釈をする者、悪人の救いだからと好んで悪をする者、逆に悪を恐れない者は救われないと説く者、悪を悔い改めなければ往生できないといいふらす者、またこの身のままで成仏するという即身成仏まで説くものまで現れてきました。東国の混乱に対して、実子善鸞を東国の地に送ります。
善鸞は父親鸞が帰京してより十八年、その父から浄土真宗のみ教えを聞いていました。東国では、門徒がいくつかの集団を形成していました。この念仏集団は、従来の集団とまったく異なる性格をもった集団でした。その特徴は、神社を中心とする村単位の集合ではなく、広く国郡をこえた信心の仲間でした。また職業は在家農民を中心として、その中に武士や商人が混じっていました。権威よりも信心を中心とした集団でした。
しかし親鸞の子という自負心のある善鸞は東国で次第に孤立していきます。ついに自分が親鸞の子であるという立場を利用し「聖人から、自分だけが伝授された特別な法門がある」とか、「私は、ある夜、父である聖人から特別な法門を聞いた」と東国の人たちの心をつかむためいわれなき教えを語ったり、有力門弟を幕府に訴えるようになりました。父である聖人に対しては、当初は言いつくろい虚言で言い逃れていましたが、時間の経過とともに性信房を初めてする有力門弟から、悲しい知らとして聖人の耳に善鸞の行動が届いてくるようになりました。
聖人はついに、建長八年(1256)五月二十九日をもって、父と子の縁を切ることを善鸞に告げます。また性信房など主だった門弟にもこのことを通告せれました。時に聖人、八十四歳の出来ごとでした。

▽親鸞示寂

門弟たちは、親鸞聖人が京都に帰ってからも、師のもとへ故郷の親を慕うよう訪ねてきました。なかには、浄土真宗の教えの質疑であったり,大番という仕事の途中での訪問であったり,長期滞在する者もありました。そして聖人から親しく阿弥陀仏の広大なるお慈悲を聞き,満ち足りた思いで帰路に着きました。逗留の折は、親鸞の許しを得て、大切なお聖教を書写し、国元に持ち帰る者などもいたようです。
聖人は晩年まで精力的に執筆活動を続けておられましたが、八十五歳を過ぎた頃より,次第に目も不自由になっていき、物事を失念することも多くなっていきました。
九十歳を過ぎた十一月(弘長2年・1262)になると、床についたまま、世間のことは口にせず,称名念仏と仏恩の深きことを口にするばかりで、いよいよ弱っていかれました。その月の二十八日(太陽暦1月16日)、実弟の尋有僧都、末娘の覚信尼、越後の国の妻恵信尼やその子供たちを代表して父を見舞った益方入道(ますかたにゅうどう)、そして高田の顕智、遠江(とうとうみ)の専信らに見守られるように念仏の息を止められたのでした。
九十年にわたる生涯でした。覚信尼は二十九日に東山の延仁寺<えんにんじ>でしめやかに火葬し、翌三十日には鳥辺野<とりべの>の北の大谷の地に納骨し、ささやかな墓標を建てました。

第4章 親鸞聖人、その後

覚如上人により本願寺おこる

親鸞聖人ご往生の後、末娘である覚信尼(1224~1283)が中心となり高田の顕智房(専修寺第三代1226~1310)や門徒の協力によって、墓所を改めるとともに、六角のお堂を建てて聖人の影像を安置しました。覚信尼公は、その子孫を大谷留守職の後継者と定め、後の本願寺の血脈相続の基礎を築きました。この留守職は覚信尼から、実子である覚恵(1239~1307)へ、その子である覚如上人(本願寺三代宗主、1270~1351)へと受け継がれ、そして第十二代以後は東西本願寺の歴代宗主として継承されていきます。
聖人の曾孫にあたる覚如上人は、「本願寺聖人親鸞伝絵」「報恩講式」「口伝鈔」などをあらわし、また亀山天皇(在位:1259-1274)より『久遠実成阿弥陀本願寺』という号を賜ります。正和元年(1312) 覚如は廟堂を再建して寺院化し専修寺と名のります。しかし比叡山衆徒の抗議により、その後大谷廟堂を本願寺と称し、親鸞の孫如信から相続した三代伝持の血脈を説いて教団統一をはかります。
聖人から伝承された言葉をまとめた「口伝抄」は、浄土真宗の教えが、親鸞聖人から孫の如信へ、如信から自分に口伝されたことを著したもので、教えの上からも親鸞聖人を継承することを表明したものでした。

東国門徒集団の動静と真宗八派

一方、東国では、真仏上人とその後継者である顕智上人が統率する高田門徒、性信上人を中心とする横曽根門徒、順信上人を中心とする鹿島門徒などの有力な門徒集団がありました。なかでも横曽根門徒は、常陸を中心に最も勢力があり、親鸞聖人も「ひたちの人々の御中へ」とご消息を送っておられます。しかし本願寺第三代留守職の争いで覚如上人と反対側の勢力を支援し、急速にその立場を悪くしていきました。
これに変わって東国門徒集団の中心勢力となったのが高田門徒でした。関東だけではなく、伊勢・東海・近江・三河・越前などに教線を延ばしていきました。それが今日の真宗高田派です。高田門徒の支流が相模(神奈川県)に形成され、その流れが正中元年(1324)に山科に興正寺を建てられ五年後に京都の渋谷寺基を移し、寺名を仏光寺と改称して始まったのが仏光寺派です。
山科の興正寺は後に第11代宗主顕如上人の第三子顕導上人が入られてから本願寺と同族関係となり、本願寺が山科から大阪の石山へ、また京都西六条に移った折りも、一緒に移転していました。しかし徳川時代に宗義の問題で不和を生じ、それが尾を引いて明治9(1875)年に独立し真宗興正派が起こりました。
また現在、福井に四派の本山がありますが、その中の三門徒派、山元派、誠照寺派の三派は、いずれも高田門徒の一支流である三河門徒の分派です。横曽根門徒の性信上人の教えの系統を受けて建立された寺院が錦織寺で木辺派の本山です。
覚如宗主の門弟である乗専上人が京都の出雲路に開かれ、応仁の頃、越前に移られたお寺が出雲路派豪摂寺です。
本願寺は仏光寺などに比べ門徒数も少ない勢力でしたが、第5代綽如宗主(1350~1393)が越中井波に瑞泉寺を建立するなど、北陸への布教活動を行っていき、次第に御影堂と阿弥陀堂の両堂が建てられていきました。

蓮如上人・在家仏教の本領を発揮し爆発的興隆をとげる

浄土真宗は、第八代宗主蓮如上人(一四一五~一四九九)によって爆発的な発展をとげます。上人は、第7代門主の存如上人(1396~1457)の長男でした。宗主就任以前の本願寺は、小さなお寺でお参りの方も少なく閑散としていました。 6歳の時、父の存如上人が正妻を娶られることになり、本願寺の侍女だった母上はひそかに本願寺を去ります。以来、上人は正妻から冷遇されながら、辛い幼少期を過ごしたと伝えられています。17歳で得度し、貧しく苦しい生活の中で、「教行信証」など親鸞聖人の書物を通して、浄土真宗のみ教えの勉強に没頭していきました。
43歳の時、父・存如上人の往生を受けて、本願寺8代目の宗主となります。上人は、これまでの儀礼や形式に偏りがちであった伝統を改め、思い切った変革をしていきました。人びとと平座でひざを交えて仏法の話し合う談合を中心とし、親鸞聖人の著述を書写し門弟に与え、現在59点のお聖教が数えられています。次第に大谷の上人のもとへ人々が群集するようになっていきます。
その状況を批判的にみていた比叡山の衆徒によって、寛正6年(1465)に大谷本願寺を打ち壊されました。
上人は、京都を出て近江へ難を避けられ、さらに越前吉崎に拠点を移されました。ここで「御文」(御文章)による伝道を盛んに行われるようになります。また仏前の勤行を『正信偈・和讃(しょうしんげ・わさん)』に改め、門徒の人たちとともにお勤めをし、み教えを分かりやすく理解できるようにされました。さらに「南無阿弥陀仏」の六字名号を墨書してたくさんの人に与えられました。
御文は、蓮如上人は生涯にわたって書きつづけられ、二百数十通に及んでいます。また、「南無阿弥陀仏」の名号の墨書は、多い時は一日300枚も書かれることがあったそうです。この御文やお名号がいきわたることで、親鸞聖人のみ教えは日本各地に広まっていきました。こうした名号や御文、御聖教の下付は大谷本願寺釋蓮如と署名し年月日を加え、願主住所、願主名を記した裏書を与えることによって本願寺への帰属意識や本末関係が成立し、あるいは再確認され御同朋の教団が確立していきました。
村組織をこえた連帯を手に入れた民衆は、しだいに自立し、徐々に民衆の中に旧仏教や政治に対する批判の声があがり、ついに武装して一揆がおこるようになりました。上人は争いをしずめるため、文明七年(1475)に吉崎を退去されます。
吉崎を出られた蓮如上人は、河内出口を中心に伝道を続けられますが、文明十年(1478)に京都の山科(やましな)を拠点に定め山科本願寺をお建て(完成文明12.1480)になり、再度精力的に布教活動を続けられました。一般民衆の帰属もさることながら、仏光寺門徒や興正寺門徒、越前三門徒など真宗他派の門徒衆がこぞって蓮如上人の門弟となっていきました。
そして、上人75歳になられた延徳(えんとく)元年(1489)に、寺務を実如(じつにょ)上人に譲られ、ついに、明応八年(1499)3月25日、山科本願寺で85歳のご生涯を閉じられました。

織田信長との11年にわたある抗争

  蓮如上人によって、飛躍的な発展を遂げた本願寺教団は、次の宗主である実如、さらに証如上人と継承される中で、大阪石山本願寺を中心として信仰団体の域をこえた一大勢力となっていきました。第十一代顕如宗主(1543~1592)の代となると、本願寺は門跡寺となり最高の地位を得ます。時は戦国時代。戦国大名の権力と闘争の狭間で、穏便に事をすすめようとする宗主でしたが、各地の戦に本願寺門徒が巻き込まれていきます。天下制覇のために上京した織田信長は摂津に下り、各地で勢力を誇る本願寺に将軍家再興の資金の上納を命じました。宗主はこれを納めましたが、なお信長は本願寺寺地の譲渡を要求してきました。宗主はこれに応じず、門徒に抗戦の奮起を促します。そうして11年にわたる信長の抗戦に突入していきました。
この一大法難を聞いて多くの僧侶や門徒が、文字どおり命がけで全国から馳せ参じています。
現在、世界遺産となっている五箇山の門徒もその一翼でした。 当時、越中をはじめ加賀・越前・美濃・飛騨・近江は本願寺の強力な地盤でした。1570年(元亀元年)9月、全山を信長の軍勢に取り囲まれた本願寺は、諸国の寺院・門徒に檄を飛ばして決起を呼びかけます。当時の越中でもこの檄に呼応し石山合戦に多数の農民がかけつけ、なかでも、五箇山の浄土真宗寺院・門徒は出陣しては大いに手柄をたてています。
この石山合戦に、紀州根来寺(岩出町)の僧兵が鉄砲を持参して本願寺側に加わり、信長軍と戦って威力を発揮しました。この根来寺の鉄砲は、1543年(天文12年)種子島に伝来された鉄砲を、根来寺の杉坊妙算が火薬の製法と共に本願寺に伝えたものです。
鉄砲の威力に自信を深めた本願寺は、北陸の軍備強化のため、金沢の尾山御坊へ鉄砲を送り、火薬を五箇山で製造するため、塩硝製造技術者を五箇山に派遣しました。また、僧を大阪堺に派遣し塩硝製造法を習得させ五箇山に広めました。
元亀3年(1572)五箇山から石山本願寺へ運びこまれた火薬は実戦に用いられ、鉄砲を背景とした本願寺勢は、信長の天下統一の野望を打ち砕いたのです。五箇山は信長との抗戦における本願寺の懐刀でもあったのです。
ひとつの信心にかたく結ばれて、教団を守りぬこうと戦ったので、さすがの信長の軍勢も、十一年という長い年月をかけて攻めながら、ついに本願寺を破ることができませんでした。

東本願寺の別立

 11年の抗争中、幾度も和議は破棄され、徹底抗戦であった本願寺も、関係大名の援軍の離反などで窮地に立っていきました。そして天正8年(1580)、宮廷の和睦すすめを受け入れ織田信長との和議を結びます。
講和に際して嗣法教如上人(1558~1614)は、信長の表裏二心を警戒して、本願寺の大阪退出には反対します。反対の理由は、蓮如宗主以来の聖地を信長の軍に渡すことへの反対、また信長の裏切りを恐れたこと、東の武田や西の毛利と信長との和睦なく本願寺だけが信長と和平を結ぶことは不当であるという理由でした。
顕如宗主は大阪退出後も教如上人は同調する門徒とともに大阪に篭城し、なお3ケ月にわたって信長軍と交戦し続けました。
本願寺は、鷺森(和歌山市)に移り、そして貝塚(大阪市)天満(大阪府)などに移りましたが、天正十九年(1591)年に豊臣秀吉が土地を寄進したので、ふたたび京都に帰ることになりました。それが堀川六条にある現在の場所です。寛正六年(1465)年、東山大谷の地を離れてから、実に百二十七年ぶりに本願寺は京都にもどってきたのでした。
寺基を京都に定め、両堂を整備された顕如上人は翌文禄元年(1592)年、五十年の波乱に満ちた生涯を閉じます。 顕如宗主のあとを継がれたのは、ご長男の教如上人でした。ところが継職されて十一ヶ月余りたったとき、秀吉の召喚を受け、「顕如上人の譲状は、第四子准如上人宛である」ので「十年後には准如上人に譲ること」等の申し入れがありました。教如上人は、これを断ったので秀吉の怒りをかい、宗主は当日辞職することになりました。そして第四子の准如上人(1577~1630)が本願寺を継承されたのです。
教如上人は、それからおよそ一ヵ月後、本堂の北の屋形に移られました。世人はこれを裏方とよびました。教如上人を慕う門信徒の人は、本山参詣のついでに訪ねるものもあり、また直々に参詣するものもあって、後には、そこに御堂・広間・玄関まで建ちました。
秀吉没後、徳川家康が勢力を伸張していくと、教如上人は家康と親しくしなっていきます。家康は、教如上人を本願寺住職に再任しようとしましたが、家康の重臣本多佐渡守は、「本願寺はすでに秀吉によって表方・裏方と分立しているのだから、今さら表方を押し込めるよりも、教如上人をたてれば、門信徒はそれぞれ両本願寺に帰します。それが天下のためにもよいでしょう」と具陳しました。家康はその意見をいれて、教如上人に現在の東本願寺の地を寄進します。 それは徳川幕府成立直前の慶長7年(1602)のことでした。
ここに本願寺は、東西に分派して、法統を継承していくことになります。