産経新聞夕刊コラム「語る」

1997年掲載 1998年掲載  隠居
 大地  宿
 祭り  テレビ
 芸術  未練
 読書  夕焼け
 一枚の写真  宇宙人
  年賀状  保険
 
 私を変えた一言
 思いでの歌
 コンピューター
 遺言
 夏休み
 1999年掲載  禁煙  2000年掲載 受験
 ダイアリー 光る海
 駅  石畳
十八番
文房具
 私と妻
 おやじ
 死に様
 逆境
 今読んでいる本
うっかり

1997年掲載

主観と客観、現在日本の文化は、客観を大切にする文化です。「それは客観的でない」というと、間違っているというイメージが伝わります。
しかし、幸福観や、美しさへの感動、素晴らし、美味しい、有り難いなど、私たちは主観的な「思う」という心の世界を、もっと大切に大切にしてすべきです。
以前、ご主人が癌で六年間闘病生活を送っているあるお母さんにお会したことがあります。その折、私は「六年間の闘病生活で何か学んだことはありますか」と尋ねました。するとその方は、テーブルの上にあった少し水の入ったコップを指して、「少しきざな言い方ですが、以前の私は、すべてがこのコップこれだけしか入っていないという見方でした。しかし今は、これだけ入っていると見られるようになりました」と言われます。
おそらく、六年間の闘病、回復の見込めない状況、将来への不安など、自分を取りまくマイナスの状況の中で、以前だったらマイナスのことしか目に入らなかっただろうが、今は六年間の体験の中で、色々な友達に助けられたこと、またそんな友達を持っていること、ご主人と出会えたこと等々、苦しみの状況の中にあって、輝きを失うことのない恵まれていることにも、眼差しが届くようになったことを、コップの水で言われたのでありましょう。コップにこれだけは入っているといわれる眼差しは、人と比べるという客観的なものではなく、「思える」という主観的なできごとです。
私は、主観が全てだとはいいませんが、この「思える」という主観的な世界をもっと意識的に大切にしていく必要があると思っています。

大地

お経の中には「大地」という語が沢山あります。その多くは、平等を表すときに用いています。平等とは、善悪、美醜、軽重、大小によって動揺することのない大地のようなものであるといった具合です。
しかし私たちの世の中では、なかなか平等とはいきません。どうしても、常識やその時の価値観によって人を評価して、レッテルを張ってしまします。
昨年こんな事がありました。あるグループで旅行に出かけました。夕食の折のことです。私の隣の席におなじみのWさんが座られました。Wさんは、六〇才になる目のご不自由な方です。宴席の間、色々な話を聞かせて頂いたのですが、私はWさんに「目が見えたら何が見たいですか」と尋ねてみました。するとWさんは「人に親切をしてあげたい」と言われます。その意外な答の内容は、目が見えないと、色々な人から親切を受ける。その時、親切をされた嬉しさから、自分も目が見えたら、人に同じ様な親切をしてあげたいと思うのだそうです。そんな日頃の思いがあり、目が見えたら人に親切をしてあげたいという言葉となったようです。
私は、その時、私には見えている紅葉や景色や物などの目に映るものを予想していたのですが、Wさんには、形が見えないかわりに、目の見える私以上に、人の心や優しさが見えいたのです。眼が見えない人には眼が見えないなりに見えている世界があるということです。
その時気付かされたことですが、私の問い自体に、私見える人、彼見えない人といった、人を色づけして見ていたということです。
人を評価することなく受け入れるには、まず自分は人を色づけして見ていることに気付くことから始まります。
大地のような人、それは人を評価することなく見ていける人のことです。私はそうした人が育つ場がお寺だと思っています。

祭り

祭りには二つの要素があります。一つは五穀豊穣などを願う祈りの要素です。もう一つは、秋の収穫祭に代表される願成就に対する感謝です。
願いは、希望であり理想であり、私を新しい私へと導きます。感謝は、目的成就であり報酬であり、私に満足感を与えてくれます。願いと感謝。この二つは祭りの象徴されるが、私たちが幸福に生きる上での重要な条件でもあります。
この将来への願いと、現在への感謝には、クオリテイーがあります。
自分中心の願いに留まらず、より大きな願いを持つことが大切です。
感謝も、ご都合主義的な感謝から、私の存在が、無限の恵みの中にあるといった宇宙的な広がりへと向かいます。
私の帰依する浄土真宗という仏教は、「他力本願」の宗旨です。他力とは、阿弥陀如来のことであり、阿弥陀如来の願いに目覚めて生きる教えです。阿弥陀如来の願いに目覚めるとは、大いなるいのちの中にある私の発見でもあります
そうした宗教的なレベルでなくとも、他なるものから願われて今の私があることは事実です。動物の鼻は、みな口の側にあるが、それは口に腐った物が入らないように見張り番をしているからでしょう。ここに、この命を守りたいのいう願いがあります。また北方モンゴリアン系の人は、鼻が低くて目が一重の顔立ちです。それは人類が、零下四・五〇度のシベリアの寒気の中で生活する中で、鼻が凍傷にかかるのを防ぐために低くなり、目は、眼球を守るために一重になったと聞きます。鼻が低く一重の瞼。そこに零下四・五〇度の中で、この命を次の世代に伝えたいという命の悲願のいうべきエネルギーを思います。
感謝は大きな願いの中にある私の自覚でもあります。将来への願い、今への感謝。共に、願いとの出会いであり、この願いを象徴したのが仏さまなのです。

芸術

何年か前のことです。上野の美術館へ子供と国宝展を見に行きました。道すがら幼稚園に通う息子に「今日は日本の宝物を見に行くぞ。君の宝物は何か」と聞きました。すると「ぼくの宝物は地球だ」と思わぬ答え。そして「お父さんの宝物はなに」と逆に問われたことがあります。今その問を考えてみましょう。
お寺にも宝物があります。宝物と書き「ほうもつ」と読みます。宝物とは、礼拝の対象となる仏像などのことです。私が住持している寺の宝物は阿弥陀如来の立像です。この立像を本尊ともいいます。本尊とは、「本当に尊いこと」という意味です。人により何を尊いものとするかは異なります。尊いものが理性であったり知性であったり、健康、法律、お金、経験など、何を尊いものとして仰ぐかを明らかにして日常生活を送る。ここに信仰生活があります。
仏像には、三十二相の表現があります。三十二通りの姿で尊いものを私たちに伝えているのです。
例えば頭髪が右に渦を巻いています。インドでは右を清浄とし左を不浄とします。日本でも左遷などと歓迎しないことを左で伝えます。仏さまの頭髪の右巻きや、右肩を出すポーズなど、右という方向に寄せて正しく道理に即していることを伝えています。また仏さまの眼は「青蓮華の如し」と青い瞳であると示されます。青は清らかさの表現であり、物事を優劣をつけずありのまま見ていける智慧の眼であることを示しています。
さて心は常に目に見えるして姿・形を通して表現されます。ところが現代は物と心を分け、物の面だけを見る傾向があります。そして物だけがひとり歩きをしているようです。
では、尊い心、大切にしたい心、未来に伝いたい心とは何か。仏像はそうした豊かな心を姿・形で表現しているのです。お寺の宝物はといえば、その姿・形を通して表現しようとしている心が、大切な大切な宝物なのです。

書読

「人間が、まだ善き行いをする可能性を持っている限り、自ら欲して人生から去ってはならない」
この言葉は、ベートーウ ンが聴覚を失い、自殺の一歩手前まで追いつめられたとき彼を思いとどまらせた言葉であると聞きます。
彼は晩年、この言葉を、かつてどこかで読んでいなかったら、ぼくはもうとっくにこの世にいなかったであろうと述懐している。
言葉は力を持っています。人を勇気づけたり、希望を与えたり、覚醒させたりします。
私は、その人が、どのような言葉と出会い、どんな言葉を身につけ支えとしているかが、その人の本当の教養だと思っています。  私も学生時代こんなことがありました。禅宗の公案に取り組んだときのことです。三カ月考え続けたが答が出せない。ノイローゼ気味になっていたときです。ある書物に「知らざるを知らざるとせよ。それ知れるなり」とありました。その時その言葉との出会いは私の取って大きな光でした。解る解らない、答える答えないといった呪縛から解き放され、一週間程この世のすべてが輝いて見えたことです。人は経験というフイルターを通さずにものを見ると、新鮮な輝きをもって映る。そのことを体験した初めての経験でもありました。
言葉との出会い。それは人間の最も大きな財産です。
仏教徒は仏さまの言葉を大切にします。私は浄土真宗の教えに帰依する者ですから、その仏さまのお言葉の中でも「あなたを無条件に救い取る慈しみの仏さま、それが阿弥陀如来です」という阿弥陀如来の救いの教えに帰依しています。阿弥陀如来の無条件の救いに帰依する。それは、無条件でなければ救われないような闇を持っている。それが私の真実の姿であることを受け入れることでもあります。
お経の言葉との出遇い。それは仏さまとの出遇いでもあります。

一枚の写真

一枚の写真。そこには幼稚園児らしい子どもが舞台でお遊戯をしている姿があります。それがお前だと言われても、ピンときません。私には自分の幼児期の写真が何枚かあります。いずれも見ることもなく無造作にしまってあるので幼児期の顔を記憶していないのでしょう。
しかしその写真は私にとっては大切な宝物です。なぜならば、その写真を見ていると、その子どもを見つめているであろう若き日の父や母の姿が思われるからです。
その写真と共に手元には、小学生時代の通信簿があります。そこには乱暴であること。そして人に見せるのも恥ずかしい学習評価が記入されています。あまり悪い評価のなので、これは隠すようにしまってあります。
その通知評を見ているとやはり先の写真と同様、その出来の悪い子どもの成長を願い、より善き方向に進んでくれたらと案じている父や母の姿が思われます。
子どもの成長の背後には常に親の慈愛があります。
私の好きな歌に暁烏敏氏の母を讃えた歌があります。
十億の人に十億の母あら んも吾が母にまさる母あ りなんや
敏をして「吾が母にまさる母ありなんや」といわせた背後には、その幾倍もの母の慈愛があります。冷たく恐ろしい母であれば母を慕う想いは起きません。母を想う歌は、単なる作者の母親への思いに留まらず、子どもを慈しみ続けた母親の愛情を彷彿とさせる歌でもあります。
私たちは、人を比較対照して見る癖がついています。比べ合いではなく、その人を親の立場で見ていく。そうした人間観が失われつつある昨今です。
子供の頃の私には、常に親の慈しみがありました。今、大人である私の背後にも、この私をかけがえのない存在であると見護て下さる佛さまの存在があります。その仏さまの慈眼の中にある私を思う。それは大きないのちの中にある私の発見でもあります。

年賀状

年末になると、毎年数通、年賀欠礼状が届きます。形式的なものが多い中にあって、その方の心情がつづられている欠礼状は心を打つものがあります。
まずはその中から一通ご紹介して見ましょう。
『長い間、病床に臥しておりした父が、去る○月○歳をもって、静かにお浄土に往生しました。生前中は皆様から、色々とご指導賜りましたこと、家族一同深く感謝しております。私にとりましてはいつになく寂しい年越しになりそうです。「人間ソウソウト衆務ヲ営ミ、年命ノ日夜ヲ去ル事ヲ覚エズ…」善導大師のお諭しが厳しく、また有り難く聞こえる昨今です。世俗の習慣により、新年のご挨拶を欠礼させて頂きます』
次のものは、一昨年先輩のご住職から頂いたものです。欠礼状ではなく、あえて年賀状として届いたものです。
『謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
昨年○月○日○○が○歳をもって安養の浄土に往生させて頂きました。世俗通途の義に従ってご挨拶ご遠慮申し上げるべきも存じましたが、如来の大悲を頂く者にとって、死は決して忌むべきことではなく、単なる通過点に過ぎないとお聞かせ頂いております。もしご無礼でしたら何卒ご容赦下さい。
「人の世に生をうくること難く、やがて死すべき者の、いま生命あること難し」(法句経)今年一年たどたどしいながら、お念仏申し上げつつ、倶会一処の歩みを続けて参りたいと存じます。よろしくご教導下さい』
浄土真宗では、死は忌むべきものとしません。阿弥陀如来の慈しみに目覚た者。その人の死は、私という小さな我執から離れ、阿弥陀如来の慈しみに同化する時です。慈しみにすべての人が摂取される。それを倶会一処といいます。そうした人生観に立ち年賀状として出状したものです。
人は悲しみに出会っている時の方が、より真実が見えます。年賀状を出すか、欠礼状にするか、どちらにしても、もっと私らしさを伝えたいものです。

ある方から聞いた話です。その方のパートナーの誕生日のことです。誕生日の主役は三人のお子さんのお母さんでもありました。
夕食の折、東京にひとり住んでいる娘さんから電話があったそうです。
『お母さん誕生日おめでとう。プレゼント、何にしようか色々考えたけれど、お母さんみんな持っているから、今日献血に行きました』とのことです。
こころをプレゼントする。すがすがしい話です。娘さんは、自分が人の為になること喜ぶ人間になる。それが母への最高のプレゼントであることを知っているのです。献血に行くことをプレゼントとした娘さんの感性が思われます。
プレゼントの原点がここにあるようです。物は心を託す手段です。
さてこれは仏さまへの志についても同じです。
仏さまへの志を、お供えといいます。お供えについて知人のHさんのことが思い出されます。
Hさんはがん体験者です。乳ガンを患い治療、その後転移し病気が落ち着いた頃、お母さんを失いました。
そのHさんが、ある日、新聞広告で四国四十八ヶ所巡りを見つけます。その時、「よし、お母さんに、これをお供えさせて頂こう」と思ったそうです。そして四国四八ヶ所を巡り、旅の話をして下さいました。そうしたご縁が積み重なったのでしょう。過日、真言宗で得度をしましたとお手紙を頂きました。
四十八ヶ所巡りをお供えさせて頂く。私はこれが仏さまへのお供えの原点のように思われます。
今日は親の命日だからと、お寺に行ってご法話を聞く。それをお供えとさせて頂く。あるいは今日一日、腹を立てない。それをお供えとする。仏さまは、私が少しでも豊かな人間になることを喜びとする方です。だから金銭もよいが、そうした心をお供えする。まさに志です。
仏さまへのお供え。それはそのままが仏さまから私へのご利益でもあります。

私を変えた一言

国鉄からJRに変わる頃のことです。盛岡の鉄道管理局からの依頼で研修会に出向することになりました。上野駅発の電車の時間が指定され、オープンチケットが送られてきています。出発駅の窓口へ行き指定席をと思っているとすでに満車。では自由席をと思うと、そこも長蛇の列。ふと隣の指定席車両を見ると、そこにはわずか三人が列んでいるだけです。その時私の脳裏にずるい想いがよぎりました。「よし、指定席券を持っているふりをして、指定席車両の四番目に列んで、ドアが開いたら通路を伝わって自由席に行けば座れるぞ」。
早速実行と列んでいるとドアが開く時刻。その時、私の耳に今まで聞いたことのないアナウンスが聞こえてきました。いわく「指定席の切符を持っていなくて指定席車両に列んで、通路を伝わって自由席の車両へ行くようなことは止めて下さい」とのこと。何と私のことを云っています。
そのアナウンスを聞き私は非常に恥ずかしく思い、列を離れ盛岡まで立って行ったことです。
指定席車両に列んでいた私は、自分の都合しか見えていません。ここには欲に閉ざされた私があります。 地獄。それは深い地の底にあると示されています。地の底という言葉から、光のない、幽閉された世界をイメージします。それは、希望のない、欲と怒りと愚かさでがんじ絡らめになっている私の姿を描写しているようにも思われます。
それに反し、仏の世界は光でイメージされます。仏さまに出遇うとは光に出遇うことです。
さて、私を変えた一言。それは何と云っても、阿弥陀如来の無条件の救いです。私が浄土真宗の教えに頷いたのは二十代の頃です。無条件の救いを受け入れる。それは無条件でなくれば救われない私の闇の深さ、愚かさに頷いた時でもありました。
私の本当の姿が明らかになる。そこに光の仏さまとの出遇いがあります。

思いでの歌

年々にわが悲しみは深くしていよいよ華やぐいのちなりけり岡本かの子さんの歌です。
悲しみや苦しみがないことが幸せだと思っている人にはわかりにくい歌かも知れません。
現代は健康第一主義、悲しみや苦しみを除く文化が旺盛です。医療、人間関係、自分の命さえも都合が悪ければ切り捨てます。そこに疑問符を持つことなく。
数年前、あるがん患者の集いでのことです。会場で二年前にがんの治療した初老の方とお話をした。偶然の検査での発見、初期だったので今はすっかり元気ですとのことです。私は思わず「よかったですね」と声をかけました。そう言ってから、心の中に、初期で発見されたがんはよく、末期であれば悪い、この図式でがん患者を語ることへの疑問符が浮かんできました。
がん患者の方には、初期で発見されて方もいます。末期の方もいれば、再発の人もいます。その発見の段階で「よかった」「悪かった」とレッテルを貼る。しかし私たちがもっと大切にしなければならない物差しがあるはずです。それはどう自分自身を受け入れ、どういのちへの感動を生きているかということです。
会場には、いつもお会いする四カ月前に一年の生存率は一三パーセントと告げられてSさんが見えていました。Sさんは朝起きると「今日も生きている」という実感がこみ上げてくるといいます。家族への思いやり、残された命に合掌し、今ここが私のすべてと、一日一日を大切に生きている姿には「悪かった」という言葉には当てはまらない人間の尊厳が伝わってきます。
先の歌を味わっていると、経験の「経」はタテイトという意味ですが、経験とは長さでなくて、深さだという思いに至ります。宗教的経験とは、生死を貫く深さを持ち、人間の苦しみや悲しみ浄化してくれるものだと思っています。

コンピューター

私はコンピューターに代表され科学技術の発達が人類の英知だとは思いません。英知とは何か。それを取り違えると、科学技術の発達は、人類の驕りを助長するだけで、人類の不幸ともなりかねません。
ある本でこんな話を読んだことがあります。
アマゾン川の近くに人喰を続ける部族がいた。いまだに人喰いを続けているその部族の所へ、一人の宣教師が布教に赴いた。
そこの酋長と話をすると、その酋長は完ぺきな英語で話をする。宣教師は驚いて云った。
「なんと、あなたが完ぺきな英語を話すとは。しかもオックスホード・アクセントまでついている。それでもまだ人喰いをやっているのかね?」
酋長は云った。
「その通り。私はオックスホード大学へ留学した。あそこでは色々なことを学んだよ。そう、我々はまだ人喰いだ。だが我々はちゃんとナイフとフ ークを使う。オックスホードで習ったんだ!」
この話は作り話でしょうが、人間の本質的なことが語られています。
大学が文化を象徴し、ナイフとホ ークが科学を、人喰いが戦争を語っているとも読み取れます。人は昔、石と棒で争っていました。それが槍と刀になり、大砲になり、やがて現代のような科学兵器となりました。しかし争うという本質的なことは何ら変わっていません。
私たちは科学と生活様式が発展することが、そのまま幸福への道だと思い違いをしているのではないでしょうか。戦争、公害、原子力、人類は科学技術が作り出した危機の中に生活してします。科学技術が悪いとは思いません。その科学技術の発達によって育まれる、人間の知性への驕りや過信、私はそこに危険さを感じます。
人間の知性は信頼できない。釈尊は、私とは迷いの存在だと説かれました。そのことを熟慮して科学技術と接する事が大切です。

遺言

『すべては移りゆく。怠らず勤めよ』。釈尊最後の言葉です。私はこの遺言を「結果を生きがいとせず、今を生きる」と頂いています。
私たちは常に、希望や目的を持って過ごしています。仕事も勉強も、結果や成果によって努力が報われたり、無駄に終わったりします。これは結果を生きがいにしているという事です。他者への親切さえも、お礼が目的でなくても、お礼の言葉がないと心が落ち着きません。これは、見返りを求める心、結果により満足する生き方が、無意識に身についているからです。しかし、老いや病い、死ぬということも見返りはありません。命の姿は見返りのないままに移り往きます。
結果や見返りではなく、その時その時に満足していく。釈尊の遺言はそのことを伝えているようです。
サルトルがノーベル賞の授賞を拒否した時、次のように語ったと聞いています。「自分は作品を作っている間に私は十分報いられていた。…それ自体が報酬だった」と。このサルトルの言葉を借りれば、生きるとは、それ自体が報酬なのでしょう。
過日の事です。わが家には三人の子どもがいます。一番下の小学三年生の子どもに、自転車を買い与えました。今まではお下がりお下がりです。初めての自分の自転車。早速サイクリングに行きました。すると「自分の自転車。自分の自転車」と言いながら嬉しそうに初めての自転車喜び、サイクリングを楽しんでいました。私はこの子どもの様子を見ながら、「今この子は目的の中にいるな」と思った事です。
これはある日の出来事ですが、人生万端、今が目的の中であり、今が報酬である事に開かれて生きる。すなわち感謝の生活ということです。
「ありがとう」(今あること有難し)という言葉の中に込められている豊かな心を、理屈や言葉ではなく、日常生活の実践の中で、次の世代に伝えたいものです。

夏休み

子供の頃、夏休みの四十日間は非常に長く感じらました。夏休み初日、九月の学校登校の日は、遥か彼方の時の隔たりがあったように思います。
ところが今は、四十日間を差ほどの長いとは感じられません。それは何度も何度も四十日のいう時の長さを経験しているからです。もし四十日間世界一周などのように、全く未経験の四十日間を与えられたら、きっと最後の日を想像することもできない程の時の長さを感じることでしょう。
私たちが見ている世界は、私という色づけされた世界を見ています。
「眼の玉ちがい」という笑い話があります。ある人が急に眼が見えなくなる。隣村に、目玉をくり貫いて、洗濯し、眼病を治すという医者がいるので、早速と治療を受ける。患者の眼の玉をくり貫きだして、焼酎で洗い、吊るし柿を干すように、竿にかけて置く。ところが烏がこれに眼を付け、眼の玉を一つくわえて持っていってしまう。医者は肝をつぶし思案していると、そこへ野良犬がくる。これは幸いと、その野良犬の眼の玉をくり貫き、焼酎で洗い、同じように竿に吊るして置く。やがて病人のところへ、眼玉を持っていき、眼の穴に埋め込む。病人は「見えます。見えます」と喜ぶ。医者は「どうじゃ。何か見えた方に今までと違ったところはないか」と聞く。「そういうと少しおかしなことがあります。ただ今雪隠へ参りましたが、右の眼では汚く見え、左の眼ではとてもおいしそうに見えました」という話です。どのような眼を持っているかによって、見え方が違うという当たり前の話です。
今、子供の頃の夏休みを迎えた時間に対する感覚の思い出があります。それは、まったく新しい日々を迎えることへの期待感でもありました。この感覚は大人になると経験という塵によって鈍感となっているようです。そして未知な出来事に対して、期待感よりも恐れや不安を感じたりします。子どもの純粋さは、経験というフ ルターを、通さないことから来る新鮮さなのでしょう。


隠居

ご隠居。いい言葉の響きです。私の心の中に、隠居に対する良いイメージがあるのだと思います。隠居について考えるこことは、老いの意味を考えることでもあります。
ご隠居がご隠居として尊敬される。そうした精神風土がなくなったからでしょうか。近年、死の際まで現役にこだわる人が多くなったような気がします。生涯現役をほめる風潮もあります。
「若く・明るく・元気で」がもてはやされる昨今です。それが最近、隠居がクローズアップされています。価値観が変りつつある現れと考えます。
社会は「強く・明るく・元気」であるに越したことはありません。しかしそれが心のあり方までとなると、これはもう現代病です。
強さは弱さの欠如でしかありません。弱い存在によって、優しさや慈しみは生み出されていきます。また夜が大切なように沈黙や暗さが象徴する営みは、明るさ以上に知的なものです。病気も質的な心の成長には重要な役割を担っています。
「強く・明るく・元気」から、質の違う価値観の模索。それが隠居に象徴されているのだと思います。
隠居は単なる人生のリタイヤではありません。それはある種の成長期です。「看護論」の著者、マーッガレット・ニューマンの言葉を借りれば「意識の拡張」という成長です。
仏教は、老病死を見つめてきました。
それは単に、人間を否定的に見てきたのではありません。老病死をありのままに受容できる心の可能性を大切にしてきたのです。
隠居という言葉に、人間の成長に即した新しい意味づけをしたいものです。
そこで提唱です。仏教(宗教)に帰依した儀式を受けると、戒名や法名、洗礼名を頂きます。定年や還暦の折り、自分の所属している宗教・宗派で帰敬式、洗礼、受戒を受ける。そして今までと異なる成長を視野に入れた生活を送る。
隠居を生活様式の変化ではなく、一つの成長期をして復活させたいものです。


宿

人は、めったにない恵みに出会ったとき幸せを感じます。逆に、自分がめったにないほどの逆境にある時、ごく当たり前のことに感動します。めったにないことを追い求めるか、当たり前のことに感動できる自分を求めるか。日本は、めったにない新しいことばかりを追い求め過ぎて来たようです。その結果、家族が暮らす家が、たんなる宿となってしまったような気がします。
以前、知人のkさんから、こんな話を聞きました。それはパートナーであるご婦人が、亡くなる前、病院入院中のことです。
二人のご子息は共に就職していました。弟さんが、毎日会社の帰りに病院へ見舞いに来ます。息子の身体の疲れを心配したお母さんが「早く家に帰りなさい」とすすめたそうです。すると弟さんは、「お父さんとお母さんがいるところが僕の家だから」と言われたといいます。
またお兄さんの話もしてくれました。ある日、兄である息子がお母さんに、「ぼくはお母さんの子供に生まれて良かった」と言ってくれたそうです。
私は、その話を聞き、家族の深い絆が思われたことです。
家族の愛情があるところ、それがどんなところであっても、わが家と呼べます。愛情がないとき、それは単なる宿になってしまします。
一〇年前、こんな経験をしたことがあります。私が、食べのが悪かったのか、ひどい蕁麻疹に罹りました。身体中がかゆくてかゆくてたまりません。一睡もすることなく迎えた明け方です。隣に寝ている幼児を見ていて、ふと「この蕁麻疹がこの子でなく、自分で良かった」という思いがよぎったのです。するとそのとたん「私で良かった。私で良かった」と、安らぎがと安眠が訪れたのです。
愛される者が潤される。逆に、愛する者が、その愛情によって潤されていく。これが愛のもつ不思議さです。我が家とは、そうした愛情が詰まっている処です。本当のものは、追い求めるものではなく、静かに合掌する中に見えてくるものなのでしょう。


テレビ

ホームドラマの中で、よくお葬式のシーンがあります。私は僧侶なので、お坊さんが本職か役者か、また何宗か、お経はなど、興味深く見ます。
数年前、息子が小学校の頃のことです。私がお風呂から上がろうとすると「お父さん、いまテレビのドラマで帰命無量寿如来と正信偈をやっていたよ」と知らせに来てくれました。正信偈とは、浄土真宗では毎朝お勤めするお経のことです。お葬式の場面で僧侶が登場し、正信偈を読経していたことは私の耳にも入っていたので、それを伝えてくれた子供の心を嬉しく思いました。しかし同時に、テレビドラマにお葬式の場面にしか登場しない僧侶、そうした社会の僧侶に対する思いが指摘されたようで自責の念を持ちました。
「葬式仏教」といわれ久しい時が経ちます。この言葉は、葬式という儀式にだけ始終している、僧侶への批判から生まれた言葉でしょう。
だからといって、私は、仏教者がもっと死より生に関わるべきだとは思いません。逆に、もっと死に関わるべきだと思っています。
死の宣告を受けた人への関わり。死別の悲しみへの対応。自殺や死に関する相談や学習。お葬式も、別れの儀式の場として、老病死を見つめる場として、仏様との出会いの場として、まだまだ工夫の余地があります。
五月、築地本願寺でヒデという青年の葬儀がありました。何万という若者たちが築地へと押し寄せました。葬儀の翌日も、ヒデを慕う若者が築地へ来ていました。その悲嘆の情景に接した、ひとりの僧侶が、築地本願寺の本堂に「ヒデ追悼ノート」を置いてくれました。それから追悼ノートには毎日、ヒデとの関わりや「ヒデありがとう」と言った思いが綴られています。
ノートを置く。小さな事ですが死を取り巻く悲しみや苦しみに寄り添っていたい。そんな思いがノートを置かせたのでしょう。そうした仲間と「死別の悲しみ電話相談」(03-5565-3418)を開設しています。苦しいこと悲しいことお電話下さい。


未練

私は東京近郊に住んでいます。近辺には、田畑や山林があります。そうした環境の中で最近よく目にするのは、犬猫などの動物の墓園です。おおかたの一般家庭には小動物を埋める庭はありません。かといって生ゴミとして引き取ってもらうのもしのびない。そこでこうした施設の登場となります。
近隣のお寺が、動物の納骨堂とお墓を開園しました。そして納骨や埋葬している動物を対象にした追悼法要を計画したそうです。実際に、関係者に案内状を出したところ、八割の方が出席されたと聞きます。初めてそれを聞いたとき“ へえー”といった思いがけない参加者数でした。しかし分かるような気もします。
おそらく集まった方は、追善というよりも、死んで逝った動物と関わることのできる場として参加されたのでしょう。家族同様に過ごしてきた動物たちです。死んだからといって、その情愛は断ち切れません。単に思い出の中だけではなく、具体的な日常生活の中で、死んで逝ったものたちと関われる。そうした思いだったのではないでしょうか。
法事。それは故人との関わりを持つ場です。また法事は単に追悼の場だけに始終するのではなく、未練や悼み、悲しみを仏縁として昇華させていく場でもあります。
九州地方に、「法供養」(ほうくよう)という営みがあります。年回法要の折り、施主が主催者となって法座(仏教講演会)を開催する。縁のある方に仏教を聞いて頂くことをもって法事とする営みです。
私も、何度か「法供養」のご縁を頂いたことがあります。思い出に残る法供養があります。それは若者が集まる居酒屋で開かれました。二十歳前に交通事故でご子息を失ったご両親。そのご両親の息子の死を無駄にしたくないという思いによって開かれました。午後七時、友人であった同級生が二〇名くらい集まり飲食の前、二〇分程ご法話をさせて頂くという形式でした。
人は失ったとき初めて本当のことが見えてきます。別れは、新しいものとの出会いの時でもあるのです。


夕焼け

夕焼け。その情景から、家族団らん・故郷といった安らぎの世界を連想します。それは夕焼けの彼方、西方に安らぎの世界を思う浄土教に親しんでいるからでしょうか。そのイメージの中では、いつも自分は子供です。子供が親のふところに帰る。そんなイメージです。
大方の親子の上に、そうした親が子を無条件に慈しむという親子関係があったことでしょう。
しかし最近は、親が子に対して点数を付け始まるのが早いようです。他人の子供と比べてわが子を考える。相対的評価は、かけがえのないいのちを見つめる眼差しではありません。
かけがえのないわが子でさえ、相対的な評価だけで見てしまうのですから、他人に対してはなおさらです。老人、病人、障害者、挫折した人など、評価ではなく、その人をありのままに受け入れる価値観が希薄です。
過日、日本の名僧として知られる叡尊(1221~90)についての学びを得ました。叡尊は、1281年、蒙古の大軍が兵船三千五百艘に乗って北九州に来襲したとき、神風を起こし日本を救った人としても知られています。
その叡尊は、当時、天災、飢饉、圧政のために浮浪の生活を余儀なくされた人々や、疫病のために地域共同社会を閉め出された人のための救済活動に従事した人でもあります。
その救済活動は、救済活動の対象者を「他者に代わって時代の苦悩を背負っている文殊菩薩の化身」であるという人間理解から展開されたと聞きます。救済する者もされる者も互いを尊重し合う。共に一つの豊かな理想に向かって歩むという営みです。
日本やこの地球は、私たちの現住所でもあり、また故郷でもあります。故郷であるならば、私を丸ごと受け入れてくれる慈しみに満ちた社会であって欲しいと思います。
社会がそうした成熟を達成するまでは、せめてはお寺や教会がその役割をになう。競争社会にあって、安らぎを提供する場でありたいと思います。


宇宙人

私は戦後の生まれです。子供の頃から青年期にかけて、宇宙人についてのドキメント仕立てのテレビ放送が何度も放映されました。
その放送を見ながら、宇宙人が私たちの手の届くところに居そうな気がしたものです。
宇宙人とのコンタクトの方法は、二つあったように思います。一つは、科学知識で積み上げた機械やシグナルを使う。もう一つは、まごころをもって念じるという方法です。物と心、物質と精神を駆使していました。しかし圧倒的に、科学知識に頼り、まごころは付け足しであったようです。それが時代の風潮であったのでしょう。
物質と精神。人類の歴史は、常にその二つの間を揺れ動いています。ある時は目に見える物一辺倒となり、ある時は目に見えない精神を重視する。その繰り返しが歴史の織りなし、その二つがバランスよく保たれた時代が、人を豊かにしたように思います。現代は、物質文明花盛りで、目に見える物が頼りであり、物が多いことが幸せという時代です。
「計量的思考を唯一の思想のように幻惑する技術革命の襲来は、第三次世界大戦の勃発以上に大きな危険である」。ドイツのハイデッガーの言葉です。
計量的思考とは、なにごとも点数をつけ比較対照して優劣をつける考え方です。
現代日本は、人や心でさえも物として扱い、点数を付ける傾向があります。
がん患者のHさんから「安心して病気がしたい」と何度か聞いたことがあります。「かわいそうに」「お気の毒に」といった自分を取り巻く環境が自分を憂鬱にしたといいます。
病気を患っても自分は自分だし、今という時は、二度繰り返すことはない。そんな自分が他人と比較され、劣った人であるかのように見られることがたまらなかったのでしょう。
物や人に点数を付けない。すべての存在は、宇宙で唯一のものであり、永遠に繰り返すことはない。そうし視点をもって、日常生活を送りたいものです。


保険

初対面の方との会話で大腿骨骨折入院が話題となりました。二度の手術、半年間の入院。六〇過ぎの彼女にとって、その傷は、一生自分をユウツにさせることでしょう。しかしことが保険金の話になると、「二口入っていました」とニンマリとしておられました。ケガの功名はお金に限るといった昨今です。
人は欲望に励まされて生きているのですからお金に対する執着は当然です。しかしこの欲望には節度が必要です。欲望に節度の調和をもたらしてくれるのが文化でありその究極が宗教です。おおかたの宗教は「感謝」と「懺悔」を大切にします。私たちの国では「ありがとう」と「はずかしい」という言葉で相続してきました。ところが現代はこの「はずかしい」という思いや感情が希薄です。
ある時友人が20年前、大学に入って一番最初に聞いた法学の講義の話でをしてくれたことがあります。
『この大学は、親鸞聖人のみ教えが中心になって出来上がっている大学です。今日、私の講義を受講されている方の中には、仏教学、真宗学を専攻しておられる方々がおられると聞きます。今この日本で、いくら法律を整備したとしても、解決できないことがあります。それはこの日本で、生命保険をいうものを無くしたとしたら、何百という殺人事件が無くなるだろう。これはいくら法律を整備したとしても、たぶん無くなることはない。仏教学、真宗学を専攻しておられる方は、この大学4年間の中で、2500年前のお釈迦様の説法や800年前の親鸞聖人のご書物を通して、人間が人間として生きていくという悲しい現実を抜きにして学んで行くということをしないで欲しい』。それは龍谷大学の高島学司教授(現名誉教授)の講義の冒頭の言葉であったと聞きます。
「人間が人間として生きていくという悲しい現実」。それはお恥ずかしいと懺悔しなければならないものを抱えて生きるしかない人間の性(サガ)を言っているのでしょう。何がはずかしいことなのか。現代は、理想的な人間像喪失の時代でもあります。

禁煙

 私は念仏によってタバコを止めたという経験があります。それは学生の頃、ある本を読んでいた時に起こりました。
 「隠れ念仏」という史実をご存じでしょうか。鹿児島を中心とする旧薩摩藩では、慶長二年(1598)以来、明治九年(1876)に至るまで、浄土真宗の念仏を禁止するという宗教統制が行われたのです。禁を犯す者は、斬首、はりつけ・火あぶり等の極刑に処せられ、あるいは逆さずりや、石責めなどの過酷な拷問にかけられたと伝えられています。
 天保年間の弾圧だけでも藩内十四万人が検挙され、難を逃れ藩外に逃れた者は一夜でけでも2804人に及ぶと史禄にあります。
 そうした暗黒の弾圧を繰り返される中、真宗門徒は、洞窟に潜み、あるいは様々なからくりを用い、地下組織の講をつくり念仏を相続しました。
 現在でも鹿児島地方には「隠れ念仏洞」の跡が点在し、お年寄りの口からは、実際の体験者から聞いた逸話を聞くことが出来ます。
 さて、ある本とはその隠れ念仏の史実をまとめた書物でした。その本には、拷問による死の間際、許され念仏を称えて死んで逝った人。海に舟を出し、荒波の中で念仏した逸話。また禁制の中、決死の覚悟で布教伝道した僧の史実などが綴られていました。念仏を申すことが許されない状況の中で念仏を称え続けた人たちの記録です。
その史実に接していたら、自由に念仏を称えることの出来る有り難さがこみ上げてきました。浄土真宗の念仏は、念仏として私に届けられている阿弥陀如来の慈しみに触れる営みです。その念仏を称えることを禁じられたのです。念仏を申せずに必死に耐え忍んだ人たちの苦渋は想像を絶します。
 その途端ふと、タバコの煙を出すことを我慢する事のたわいのなさ思われました。それから1,2ヶ月は、タバコのことが思いにかかると、念仏を申すことの喜びを噛みしめて過ごしました。そしたらいつの間には禁煙という思いのないまま、タバコから解放されていたのです。

ダイアリー

 人はみな心にダイアリーを持っています。そのダイアリーを仏教ではアラヤ識(仏教で語るもっとも深い潜在意識のこと)と言います。スイスの精神分析学者であるユングは「集合無意識」として個人の体験は蓄積されるとも語っています。人の行為は日記帳に記さなくても、心の底に記憶されていきます。
近年では、その心のダイアリーの親玉が遺伝物質DNAであると言われています。
 私はこのDNAについて、興味を持つことが二つあります。
 一つは、人間も生物もバクテリアも同じ遺伝物質により成立していることです。仏教は「一切衆生悉有仏性」(すべての生き物が仏となる可能性を持っている)と説いてきました。人間のみならずすべての生き物は、遺伝子レベルでは同質量のいのちの値打ちであるということです。
 それとDNAの発見までは、生命現象を、物質と異なるある種の優位性を持つものと考えられてきました。ところが、遺伝物質の領域では、生命現象は物質現象の一つの表現にしかすぎないと聞きます。これも仏教で「一切草木国土悉皆成仏」と説いてきたことに符合します。人に限らず草や木も土さえ仏と同じ輝きを持っているということです。
そこで二つの提言です。まず、西洋文化の常識では、人間は生物や物質に比べて特別な存在であるとしてきました。それが人類のおごりを生み出しました。これに近代以後の日本人も同調してきたのです。遺伝物質が明らかにしてくれてように、人はもっと他の生物や無生物に対して謙虚になるべきです。
 それと命の尊さです。遺伝物質という客観的な事実の上では、犬も石ころも同じ命の値打ちです。ではどこで私の命の尊さを押さえるのか。私たちは命の尊さを「~だから」「~だから」と、客観的のものへ求めすぎてきました。もっと「尊いと思える」ことを大切にすべきです。尊いと思えるか、思えないか。同じ命でも、ここに雲泥の差があります。人間教育とは、その人の思いを育てることです。

 人生の終着駅。それがあの暗い墓の穴では、あまりにも寂しい人生です。
 といって花咲き鳥歌い光りこぼれる仏国土といわれても、すぐそれを信ずるわけにもいきません。私たちは経験を信じて生きています。経験があることには自信があり、経験のないことには自信がない。また同じ経験を共にした仲間は、同じ釜の飯を食った間柄としてと信頼関係が生まれます。安心して社会生活が出来るのも、経験的に社会のシステムを信頼しているからです。この経験によって実証できないことは信じられないのです。そして経験の及ばない死後の世界となると、まったくのお手上げです。
 経験の及ばない「死」からは何も連想できない。現代人は、非常に貧しい死の文化を作り上げしまったようです。
 以前ある施設の居室訪問で、訪問の折々にKさんをお訪ねしていたことがあります。いつも行くと毎回同じように、少女の頃他界した父親の悪口を言います。九十二歳のKさんです。だれが見てもこれから長い人生だとは言えません。私は「Kさんも、もうすぐ仏様の国に行くから、そこにきっとお父さんがいる。そのときお父さんを捕まえて、思う存分なじったらいいよ」といいました。するとKさんは、寂しそうな顔をしました。私はそのとき、「そうか。Kさんはそのことが思えないんだ」と理解しました。見て触ってという経験でうなずいていけることにしか、心を通わせることができない。そのとき私は、死後について自分はすごく自由な世界にいることを感じました。 たとえばお経を読んでいた時、ふと「この命終わって仏様になったら、過去に生まれて直接このお経を釈尊の口から聞いてみよう」と思い楽しむこともあります。
 そんなことが出来るのか出来ないか。それを経験のレベルで実証する必要はありません。すべては仏様に任せて、私の縁に従って自由に連想します。死後は、限りのないいのちに摂取されるときとして、今を潤してくれます。
 人生の終着駅。それを私の命という固執から解放される時として連想できる。ここに一つの恵みがあります。

十八番

 仏教の法話を「説教」と言います。数年前より、私の説教の十八番は仏様のお姿の話です。仏様は、32相といって、32通りのお姿の特徴をもって、仏の豊かさや慈しみを表現しています。
 なかには大洞吹きでもここまでは言わないといった表現があります。たとえば、仏様のまつげは、上下に五百の毛をもち、その一一のまつげが、頭部を一周する程の長さであるといった具合です。
 髪の毛の長さも同様です。「往生要集」というお経には、阿弥陀仏の髪の長さは「修長にして量りがたし」とあります。そして次にお釈迦様の髪の長さを例えに出されます。「釈尊の髪のごときは、長さニクルダ精舎より父王の宮にいたり、城をめぐること七そうせり」とあります。
 以前、理容店を営むお宅に法事のご縁があったとき、この話をしてみました。 そしてこの髪の長さを通して、インドの方々は、仏弟子たちは何を表現しようとしたと思いますがと尋ねてみました。
 すると理容師であるご主人が「いのちの長さではないですか」と即答されました。頭髪をいつも扱うマスターです。日頃から髪の長さは、時間の長さとして身近に感じておられたのでしょう。いのちの長さは爪でも表現できます。しかし長い爪では品がありません。それよりも髪の長さで示すことが適当です。
 奈良東大寺には、善導大師作と伝えられ国宝指定の「五劫思惟の弥陀」があります。頭髪が伸び放題に延びている仏像です。五劫とは途方もない時間の長さですから、頭髪の長さは時間の長さに親しいようです。
 「修長にして量りがたし」。長い髪を通して仏の無量のいのちの長さを伝えている。仏様のお姿の味わいを深めた出来事でした。
 お経の中には、非常識な表現が多くあります。私は表現が非常識であればあるほど、大切に頂くようにしています。お経は、常識に縛られている私を自由な世界に解放することを役割として担っているからです。
 常識が間に合わない。そこに苦しみや悲しみがあります。

文房具

 若者は遊びを見つけるのが上手です。カラーペン類をはじめとする文房具。丸文字、いつも(いつもいつも)などの表現を見ていると感心します。
 昨年5月、Xジャパンのメンバーであったhideの葬儀が築地本願寺でありました。それ以来、築地本願寺の本堂にはhide追悼ノートが置かれています。この一年で大学ノート37冊を数えます。このノートもまた、カラフルなカラーペンでそれぞれの思いが書き込まれています。
 最初の頃のノートを分析しました。分析といっても、どんな言葉が多かったかを拾い集めただけですが。
 なんといっても一番多かった言葉は、「ありがう」でした。これは正直な故人への思いなのでしょう。それと次の多かったのが「永遠に私の心に生き続けます」という言葉です。
 若者の心は、死んだら終わりというドライな感情ではありません。人の生と死を超えて、生き続ける願いや愛、想いといった情念を大切しています。死んだら終わりというドライな感情は、むしろ大人たちの抱く心のようです。
 さて最近のノートの言葉です。多くある言葉で意外であったのは「お元気ですか」という言葉です。
hideはすでに死んでいます。その意味からすると元気であるはずはありません。しかし本堂という仏様を安置した空間。生と死を包む宗教的な空間に身を置くと、「お元気ですか」と語りかけることができるようです。築地本願寺の本堂は、心の中に生き続けているhideとの出会いの場なのでしょう。
 そして彼らは「お元気ですか」の次に自分の近況を書き込みます。故人との出会いの場は、そのまま故人から見られている自分との出会いの場でもあります。 色とりどりのカラー文字。その裏に自分との出会いを求める時代を超えた若者の姿が見えてきます。
 巡礼は自分との出会いの旅です。カラー文字。献花。形式は昔と違いますが、その若者の姿の上に現代の巡礼を思います。

私と妻

 妻とは、私が学生時代に知り合いました。出会いは偶然でしたが、長く連れ添っていると出会うべくして出会ったのかとも思います。
 偶然と必然。この二つは対立する事柄ですが、人と人との出会いの上では、偶然の出会いの中に出会うべきして出会ったという必然性を思うことがあるようです。
 私どもの宗派の先輩である東井義雄(故人)さんに次のような歌があります。
 妻 ひょっとして これは 
 わたしのために 生まれてきた
 女ではなかったか
 私の好きな詩です。子育て真っ最中の夫婦では、なかなかこんな心境にはなれません。しかし、私の深層意識の中には、こんな思いもあるのでしょう。その思いが言葉や感情になる時のことを楽しみにしています。
 偶然の上に必然を思える。しかしこの必然も固定化してしまうと、単なる運命論に陥ってしまいます。運命論では出会いの感動がありません。必然ではなく偶然の積み重ねの出会いだから「有り難し」という感情も沸いてくるのでしょう。その偶然も天文学的数字の積み重ねであることを思うと、喜びも深まります。
 偶然の出来ごとに必然性を思える。また、必然ではなく、偶然性を感じて「有り難し」と思える。どちらも大切な思いです。
 さて本題である「妻と私」に話しを戻しましょう。
 残念ながら私は、先の詩のように「私のために生まれてきた」とは思えません。しかしあらために振り返ると、映画「釣りバカ日誌」(西田敏之主演)で、主人公である浜ちゃんこと浜崎伝助がプロポーズに言った言葉にピントが合います。 浜ちゃんは、釣りバカで万年ヒラの×(ペケ)サラリーマンです。その浜ちゃんいわく「君を幸せにする自信はないが、ぼくが幸せになる自信はあります」。うまいことを言います。
 確かに、妻を幸せにしたという思いも事実もありませんが、私が幸せになったという思いはあります。

おやじ

 おやじ。この言葉には懐かしみがあります。数年前、お世話になった方をお浄土に送りました。「この方に会えてよかった」と思えた人でした。
 東京の病院で亡くなり、築地本願寺で密葬を行うことになりました。葬儀の段取りとなり、ご遺族のお許しを得て、私が葬儀全般のコーデイネイトをする運びとなりました。その方は、仏教界のいわゆる大物でしたので、政財界をはじめ、仏教界や一般の人まで、多くの会葬者が予想されました。金銭的にもご遺族の負担をかけないようにとの思いもありました。
 当時、私は浄土真宗本願寺派の勤式指導員と言って、関東地区の僧侶や門信徒に浄土真宗のお経は作法の指導をする役職に就いていました。そこで通夜、葬儀と当宗派の作法に則り、これが浄土真宗本願寺派の葬儀だという儀式を行おうと密かに考えていました。
 葬儀の施工は東京の大手の葬儀社です。通夜の日の夕方のことです。葬儀社の専務や社員にみな集まってもらい、訓辞らしきものをしました。
「今日は、○○師の通夜、明日は葬儀です。政財からは元総理をはじめ多くの方々が弔問に来られる。京都からも宗派の総長・総務など沢山の人が来られるだろう。その中で私は、これが浄土真宗の通夜・葬儀だという儀式を勤めようと思う。貴社において、これから先、浄土真宗のお寺での葬儀が度々あるに違いない。その時○○師の時は、こうでしたといえる葬儀式にしたい。“○○師のときはこうでした”という言葉が言える。それが葬儀社の本当の財産ではないですか。それが葬儀社ののれんというのもではないですか。この度の葬儀、色々と便宜を図ってまけてもらったが、そのことを考えれば、勉強の機会と思い、ご奉仕でやさせて下さいという声があってもいいのではないですか」と涙腺をゆるませながら訴えました。
 ご奉仕とはなりませんでしたが、こちらの思いと心意気だけは伝わったようでした。
 恩返しと言うよりも、葬儀におよんでも、お育てを頂いたという思いです。

死に様

 私の宗旨では(浄土真宗)では、死にざまを問題としません。逆に言うと、人はどんな死に方をするかわからないということです。
 どんな死にざまであっても、死ぬときは死ねるように死なせて頂くしかありません。どう転んでも阿弥陀如来の慈しみの手の中のことなのですから。
 死に様ではなく死に際について、一つ興味のあることがあります。
 それは心臓が止まって意識が完全に消滅するまでの間のことです。
 五木寛之氏の著書に次のような話が紹介されています。
 あるおばあちゃんが亡くなったとき、医師が呼吸を調べ瞳孔を調べて「ご臨終です」と家族に告げた。家族は死に水を取ることを思い出し、あわてて脱脂綿はどこだと右往左往する。すると「ご臨終です」と言われたはずのおばあちゃんが、目をつむったままふっと「タンスの上から3番目の左側」と言われたという話です。これはあり得る話しです。
 人間の脳は、心臓が止まっても約5分間は正常に活動し、心臓マッサージ等によって復活が可能です。これは心臓が止まってからの数分間は周りの声が聞こえ、脳細胞の活動は生きているということです。
 興味があるとは、その数分間、あるいは数秒間、何を思いこの人生を終わってゆくかということです。もちろん、もしそうした状況が許されるならのことです。
 わたしは、消えゆく命の中で、こんなことを思って過ごしたいという希望があります。これは一つの楽しみでもあります。
 私は死は敗北だと考えません。死は自然のことです。そして私の死が、どんな終わり方であっても、それなりに意味のあることだと思っています。家族や縁ある人に、命には限りがあるという仏様の教えを我が身の実践で示すのですから。死はそれだけで残された人への大きな贈り物なのです。
 死にざまは、死んで逝くのではなく、死んで往けることが大切なのでしょう。

逆境

 子どもの頃の一場面をよく思い出します。雨の降る中、路地の水たまりで泥をこねたり、勢いよく流れる雨水をせき止め、堤防を作ったりしている自分です。 今から思うと、あの雨に日の水あぞびは、水の流れの変化を楽しんだり、泥や石で堤防を作る創造の楽しさと戯れていたのでしょう。その時の楽しい気持ちが、私の原風景の一つとなっているようです。その時と今では子どもと大人ですから、環境や行為の内容は違っています。だがあの創造の楽しさ可能性と戯れるという本質的な部分は大差がないようです。
 逆境の中にあって、子どもの頃、雨降りの中で水の流れと戯れたように、出会いや変化、自分の可能性や成長を楽しめたらどんなに意義あることだろうと思います。
 過日、詩人であるかとうみちこさんとのご縁を頂きました。彼女は、高校2年のとき無腐性壊死という難病に冒され、何度か死の影に触れる体験を持つ人です。
 病の中、どうにもならない状況の中で師と出会います。その師から◎(二重丸)の真上から見た富士山の絵を示されたといいます。「驚きました」とその時の思い出を語ってくれました。富士山も見方によって想像もしなかった形がある。その時、百パーセント病身であると思っている私以外に、両親から見た私、天から見た私、みんなから見た私など、百パーセント病身でない私があることに気づいたとのことです。
 自分で自分を見るという状況があります。少し成長すると、他人から見られている自分を意識します。他人が見ていなくても自分の行為に恥じらいを感じる。これは天から見られている自分を意識できる人かも知れません。仏様のまなざしの中にある自分を意識できる。これは、仏様から見られている自分に意識が開かれている人です。
 逆境にあって、その時の自分をどのレベルで意識できるか。ここに人としての可能性があります。また逆境は新たなる意識との出会いの場でもあります。

今読んでる本

 近年、わが国の自殺者は目に余ります。
暴走族やちゃらんぽらんな生活をしている人が自殺したという話はあまり聞きません。どうもまじめな人が危ないようです。物事にまじめに取り組む。それは一つの美徳とされてきましたが、その「まじめさ」を、いま一度問い直す必要があります。
 「ケアの本質」(生きることの意味)ミルトン・メイヤロフ著。この本は一九七一年出版の世界展望双書の1冊です。いま読んでいる本は、一九八七年、田村真・向野宣之訳として「ゆみる社」から刊行されています。
 この本は、医療の一分野としてのケアにとどまらず、人間関係のあり方、生きることの意味について説かれています。 この本の中に次のような言葉があります。《ケアにおいては、成果より課程が第一義的に重要である。というのは、私が他者に関わることができるのは、現在においてのみだからである》とあります。
このケアを、仕事や勉強、人間関係と置き換えても同じことがいえます。
 病気が治った。儲かった。成功したなど、現代は、過程よりも成果をより大切にします。その結果の多くは数量で示されます。成果を数量で表したとたん、かけがえのなさや唯一という尊厳が失われ、相対的な価値に埋没してしまいます。
 結果をなおざりにするのではありません。結果以上に課程に、生きていることのかけがえのなさや生の実感があるのです。
 過日、がんの疾患でパートナーを失った知人から聞きました。終末期、夫である患者が悶々としていると、精神科の医師がきて「精神科の薬を処方しましょう」と言われ唖然としたとのことでした。
 その医師にとっては、患者のマイナス的な症状が快方するという結果だけに興味であったのでしょう。患者は、その苦しみ悲しみを共有する場に一緒にいてほしかったのです。
 苦しみや悲しみ、楽しい嬉しい、そのすべてがかけがえのない私の人生なのです。その時その時を大切にできる。そんなまじめさに魅力を感じます。

うっかり

 私は大学最終年に、うっかり卒業単位の履修科目の足し算を間違えて、一年長く学校に通ったことがあります。うっかりを防ぐのには、小さな事でも一つ一つ確認し、生活の中に「間」を持つことが大切です。
 音楽でも、演劇でも「間」の取り方によって、全く別仕立てになってしまいます。「間」は何もないことですが、何もない時間や空間を持つことによって、全体が生きてきます。
 「間」の大切さは日常生活にも言えますが、心や人生についても同様です。
 あるがん患者さんが「人生はやり直しはできないが、見直しはできる」と言われたことがあります。病気が、人生を振り返る大きな分岐点となったとの述懐でした。
 宗教には色々なメリットがあります。その1つが、自分を絶対視せず、客観的に見つめる場が与えられることです。もとより自分の欲望を達成するために神仏を利用する宗教は別ですが。
 私はこれを自分の心の中に「間」を持つことだと思っています。「間」で思い出す話があります。
 学生の頃、よく清水寺に大西良慶師の講話を聞きにいきました。朝の講話を聞き、境内でそばを食べてくる。それが日曜日の楽しみでした。百歳を越えた師が独特の良慶節で「人間は間が大切なの。間のない人を間抜けというの」とのことでした。
 私は最近「間が大切だ」といったあの「間」は、人と人との間(あいだ)ではなく、一人称でいうところの「間」、すなわち、心の中に「間」を持つことだと思っています。
心の中に「間」を持つ。それはおれが、私がの「我」に汚染されていない尊いものを持つことです。
 日常生活では礼拝の対象を持つことです。礼拝の場は神仏中心の空間であり、自ずと自分を客観視する場に置くことになります。
 生活・心・人生。「間」の取り方によって、全く別仕立ての私になります。うっかり五〇年。ありそうな話しです。

受験

私は高校受験で1度失敗しています。失敗といっても、熱心に勉強をしなかったので失意はありませんでした。
 ただその時のことで、強く心に残っている記憶があります。合格発表の日のことです。学校関係者から、不合格であった旨の通知を頂きました。不合格とはいえ、合否を自分で確かめようと、受験した学校に向かいます。電車を乗り継ぎ駅を降りる。徒歩で学校に行く道すがら、同じ学校から受験して合格した女生徒とすれ違いました。不合格を見に行く私は一人。合格を確認した彼女は家族との3人ずれ。そのコントラストが残像として心に焼き付いています。
 なぜその場面だけが、記憶に強く残っているのか。ここ数日、そのことが常に念頭にありました。どうもその正体は「体裁の悪さ」であったようです。体裁の良し悪し。この思いは、今日に至るまで、自分の行動指針の大きな部分を占めていました。そのことを今、先の思い出と共に理解しました。
 体裁ではなく、自分の深い願いに基づく行動。残りの人生をそう歩みたいと思います。
 子供は、よい点数をとるとほめられます。ほめられると、身体中に快いバイオリズムが生まれる。そしてもっとほめられようと勉強をします。そこに弊害も生じます。他人の評価によって、おのれの満足度を測っていくことです。体裁を大切にするという体質です。
 先月、教育改革国民会議の最終報告が発表されました。気になった部分は奉仕活動です。いわく「思いやりのある心を育てるためにも奉仕活動をすすめること」。これはくせ者です。奉仕活動を否定はしません。しかし思いやりは自発的な感情です。その思いやりを強制される。また奉仕活動はそれだけで善人顔をしています。だから奉仕活動イコール善いこととなりがちです。個人の思いを離れて、政治が善いことを決めていく。その善いことが、受験合否の参考なるとなればこれは最悪です。まずはボランテイア精神を育み、自発的に行動できる環境を整えることが先決です。

「光る海」 サブタイトル 物から光が失われたとき

 私は島根県に生まれ、幼児期より千葉県に育ちました。記憶の最初にある海の思い出は、六歳の頃行った館山(千葉県)です。
 その時の思い出は、数枚の写真のように場面だけが残っています。遊んでいたビーチボールが、沖合に流されました。途方に暮れていると、ひとりの青年がきて、タイヤチューブの浮き輪に乗り、ボールを海から取り戻してくれました。ボールを追いかける青年の姿が、光る海の中に、だんだん小さくなる残像として残っています。ボールがそのまま沖に流されていたら、あのビーチボールは、私の記憶には残っていないのだと思います。そう価値のないビーチボールを、沖合まで追いかけてくれた。光る海と共に、印象的に私の心に焼きついています。
 小学校低学年。あの頃は一つ一つの物が不思議と脳裏に残っています。父が使っていた上から覗く式のカメラ。初めてわが家にきたテレビの形。自転車。仏壇等々。一つ一つの物が、光りを放っていたようです。
 物から光が失なわれたのは、いつ頃からでしょうか。それは昭和何年ではなく、比べて物を考える知性が身についた頃からだと思います。おそらく青年に見えたあの人も、ビーチボールに光を感じとれる年頃だったのかも知れません。
 子どもにとっていい経験とは何でしょうか。二〇年前、次のような統計を読んだことがあります。それは名をなし功をおさめた百人の少年時代の統計です。その半数ほど人が恵まれない境遇でした。同時に、刑務所に入所している百人の人の統計も紹介されていました。結果は同様に半数が恵まれない境遇でした。境遇の良し悪しより、もっと大切なものがあるようです。
 子どもの頃の体験は、どんな体験であっても貴重な体験です。その体験に関心を寄せてくれる人がいる。それが重要です。これは子どもだけの話にとどまれません。ありのままの自分に評価することなく関心を寄せてくれる。あのビーチボ-ルに関心を寄せてくれた青年から、もっと学ぶ必要があるようです。

石畳

昭和9年9月21日早朝、四国室戸に大型台風「瞬間最大風速60m」が上陸。室戸台風」の名で呼ばれているこの台風は、室戸岬から近畿地方を縦断して日本海に抜けたが、京阪神を中心に死者行方不明者あわせて3066人、負傷者15361人、建物の損害475634棟に及ぶ惨禍をもたらした。
特に大阪府を中心に小学校や中学校の校舎倒壊があいつぎ、このため小学生を中心に多数の死傷者が出たが、同時に児童生徒を助けようとした教職員にも犠牲者が続出した。大阪府豊能郡豊津尋常高等小学校「現・吹田市立豊津第一小学校」でも、木造2階建ての校舎が一瞬のうちに倒壊し、51人の生徒が死亡、200人が重軽傷を負い、二人の女教師が殉職するといういたましい状況となったが、このとき殉職した女教師の一人、横山仁和子先生は、京都女子大学の前身である京都女子高等専門学校の卒業生で、数えの26歳の若さであった。
横山先生は、轟音と共に崩れ落ちる校舎の中で、逃げ遅れた三人の学童をかばって咄嗟に抱き寄せ、自らの命と引き換えに、身をもって三つの幼い生命を守ったのであった。
この室戸台風でとおとい命を失った児童生徒および教職員を悼んで、翌昭和10年9月21日には大谷本廟で一周忌の追悼法要が営まれ,あわせて「関西風水害罹災学童碑」の除幕式が行われた。この碑は、日曜学校関係者を中心にひろく寄金を募って建立されたものです。