次回(2025年11月3日)の報恩講のご案内(兵庫県・水杉 悟史 師)
(日時)2025(令和7)年11月3日(祝・月)13時30分〜勤行、14時頃より50分のご法話
(場所)西方寺・本堂(千葉県柏市名戸ヶ谷1121−2)
(講師)水杉 悟史 師
次回(11月3日)にご出講いただくご講師は、兵庫県の水杉 悟史 師です。西方寺・副住職(西原大地)が本願寺派布教使を取得する時にご指導いただいた先生です。2022年2月24日に築地本願寺の夜座でのご法話の中で印象的だった話をご紹介いたします。
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こんばんは、水杉でございます。今日は兵庫から参りました。
私は兵庫でお寺のお参りをしておりますが、一人でお勤めをしているときに、ここ数年、いつも口にしている言葉があります。それは、親鸞聖人が深く尊ばれた中国の元照律師(がんじょうりっし)という方のお言葉です。
南無阿弥陀仏の御名(みな)によって、私たちを救ってくださる仏さまが阿弥陀如来である――そのことを、これほど端的に明らかに示してくださる言葉はないと、いつも思うのです。
その言葉とは、「わが弥陀は名をもつて物を接したまふ。」
つまり、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という名の形となって、この私を救ってくださるということです。この元照律師のお言葉ですが、ふつう「わが弥陀は」とは言いませんよね。
そこには、阿弥陀如来の願いが私に向けられ、私のことを思い続けてくださる――そんな深いぬくもりを感じます。だからこそ、「わが弥陀」と、自らの仏さまをそう呼ばれたのだろうと、何度も唱えるうちに思わされるのです。
この言葉には続きがあります。
「我が弥陀は名をもって物を接したもう。ここをもって、耳に聞き、口に頌(じゅ)するに、無辺の識心に乱入す。」
南無阿弥陀仏がこの私の中に入り満ちてくださる――そういう意味です。仏となるだけの功徳が、すべてこの名号の中に備わっており、それが私の心身の中に満ちてくださる。
「識心」とは、この身と心のこと。迷いの中にある私が、そのまま悟りの身へと変えられていく。重ねてきた罪も、たちまちにして光に転じ、この上ないお悟り(無上菩提)を得る――そう説かれています。
親鸞聖人は、この元照律師の言葉を、南無阿弥陀仏の徳を讃える場面で引用されています。
私もこの言葉をお念仏の中でいただいてきましたが、いつの間にか、如来さまと向き合って唱えるうちに、自然と身振りがつくようになったんです。本堂の片隅から誰か見ていたら、「あれ、住職おかしくなったのかな」と笑われるかもしれません。
でも、もう自然とそうなってしまうんです。あちらにおられる如来さまに向かって、思わず手が動いてしまうんですね。このことを念頭に置きつつ一つ身近な話をいたします。
私は兵庫県の西脇市という小さな町からまいりました。その西脇市は、イチロー選手が所属していたシアトルの近くにあるレントンという町と、姉妹都市の関係を結んでいます。
毎年、中学二年生が代表団として向こうへ行き、ホームステイをし、逆にアメリカの子どもたちも西脇に来てホームステイをする、そんな交流を続けています。
私の娘もそのとき中学二年生で、「行ってみたい」と言いましたので、少し費用もかかりますが、「いいよ、行っておいで」と送り出すことにしました。
ところがその年は希望者が多く、予定より大幅に人数を超えてしまいました。帰ってきた娘が、「私、ダメかもしれない」と言うんです。「私より勉強できる子も、クラブで頑張ってる子も、生徒会で活躍してる子も応募してるから」って。
教育委員会で英語の簡単な面接があるらしく、それで決まるという話でした。
「行けたら行く、行けなかったら仕方ないね」と話していたら、なんと行けることになりました。「なんで私が選ばれたんだろう?」と娘は不思議がっていましたが、私も「教育委員会に聞いて」としか言えませんでした。
ところが、しばらくすると娘の様子が変わってきたんです。
「英語しゃべれへん」「外国行ったことない」「飛行機も乗ったことない」――そんな言葉ばかり言うようになって、とうとう「お父さん、教育委員会に断ってくれへん?」と言い出しました。不安でいっぱいだったんですね。
そのとき、一本の電話がかかってきました。
妻が受けて、「ああ、レントンの方ですね」と言いながら娘に電話を代わりました。シアトルからの国際電話です。
娘が話し終えて戻ってきたとき、手を叩いて「やったー!」と言うんですよ。「どうしたの?」と聞くと、「この人、日本人やって!」と。
電話の相手は、シアトルで仕事をしている方で、娘がホームステイするお家の隣に住んでいる日本人の恵子さんだったんです。
「英語が不安なら、いつでも私のところにおいで。困ったときは私が行くから」と言ってくださったそうです。その言葉を聞いて、娘は一気に笑顔になり、「やったー!」と喜びました。
私はそのとき、ふとこう思いました。
――南無阿弥陀仏とは、こういうことなんだな、と。
「あなたの心配は、もう私が引き受けた。安心しなさい。我にまかせよ、必ず救う」――
阿弥陀さまの名号が、そう名乗って私に届いてくださっている。
まさに、元照律師の「わが弥陀は、名をもって物を接したもう」というお言葉そのものです。
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