次回(2025年3月3日)の法話会のご案内

次回(2025年3月3日)の法話会には、大分県から蓮谷啓介先生がご出講くださいます。浄土真宗本願寺派の聖典学習冊子である『季刊せいてん』NO.122(2018年春)に蓮谷先生がご法話を寄稿してくださっておりますので、ご紹介いたします。
また、皆様のご参拝をお待ちしております。
法語随想① 蓮谷啓介
これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり(『御文章』、1180頁)
(これは私たちの往生が定まった証拠である。)
浄土真宗は、名号「南無阿弥陀仏」のおいわれ・意味を聴聞する「聞名の宗教」です。
親鸞聖人は名号のおいわれを聞いて疑い無き心が信心です、と教えてくださいました。
その名号のおいわれを蓮如上人は、「阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、〈衆生仏に成らずはわれも正覚成らじ〉と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり」とお示しです。
その意味は、「阿弥陀様がむかし法蔵菩薩であられた時に、すべての者を仏にすることができなければ我も決して仏とはならないというお誓いを建てられ、永いご修行によってそれを成就され、すでに阿弥陀様と成られて今ここにご一緒くださいます。
そのおすがたこそ、今私たちが称えて聞いている〈南無阿弥陀仏〉なのです。
ですからこれこそが、私たちが必ず仏様としてお浄土に生まれ往く〈証拠〉なのです」と言われたのでした。
「証拠」には疑いを除き、物事を決定づける力があります。
大分県出身の嘉風(よしかぜ)という関取がおられます。
出身地である佐伯市には、仕事などで相撲を観戦できずに勝敗が気になるという方が多くおられます。
そこで後援会の方々が、嘉風関が勝った時だけ花火を一発打ち上げることにしたのです。
夕刻、嘉風関が勝った知らせが佐伯市の空に響き渡ります。
さてその時、花火の音を聞いた人の心はいかようでしょうか。
花火の音を聞くまでは、「今日嘉風が勝ったんだろうか、それとも負けたんだろうか」という二つの定まらない不安な心、いわば嘉風関の勝利を疑う心がありました。
ところが、花火の大音を聞いたたちどころに、たった一つ、「今日、嘉風は間違いなく勝ったんだな」という心一つに定まります。
それは安心であり、疑いがまったく無い心です。
なぜならそれは「証拠」を聞くからです。
それは自ら起こした心ではなく、花火の大音が私の心をして疑いを除かしめ、信ぜしめたのでした。
そうすると、今「南無阿弥陀仏」と称え、それを聞くところにはもう「阿弥陀様は本当におられるのだろうか、おられないのだろうか」、「お浄土は本当にあるのだろうか、ないのだろうか」、「お浄土に生まれて往けるのだろうか、往けないのだろうか」といった一つの定まらない不安な疑い心に用事はありません。
あるのはたった一つ、「今ここに阿弥陀様がご一緒くださって、必ずお浄土に生まれて仏様に成らせていただく」という心です。
この心一つに定まるのです。
なぜならそれは「証拠」を聞くからです。
今聞こえる「南無阿弥陀仏」が私の心をして疑いを除かしめ、信ぜしめるのです。
しかし、ここで大事なことは「花火の音」も「南無阿弥陀仏」も、そのおいわれ・意味を聞いていない者には通じないということです。
花火の音は同じでも、そのいわれを聞いていなければ、「うるさいなあ」と聞く人もあれば、「お祭りでもあるのだろうか」などと聞く人もあります。
同じように「南無阿弥陀仏」と聞いても、そのおいわれを聞いていなければ、「呪文」や「おまじない」のように聞く人もあれば、「お葬式の言葉」などと聞く人もあります。
今、名号「南無阿弥陀仏」のおいわれを聞く者にとってその一声とは、いつどこで誰がどのような状態で称えようとも、それは阿弥陀様が仏に成る可能性がまったくなかった私たちをはじめから目当てとして、「もうあなたを必ず仏にすることができるようになったんだよ」と今ここにご一緒くださるすがたでした。
私たちは、身も心も決して思い通りにならず、今にもたった独り命を終えていかねばならない不安や心配を抱えて生きています。
そして、誰にも代わってもらえず、時には誰にも分かってももらえない寂しさや悲しみを内に秘めて生きています。
阿弥陀様は、その揺れ動く心の真っ只中に、今、「南無阿弥陀仏」と至り届いて、「大丈夫、独りじゃないぞ、まかせよ必ず救う」と大きな声でご自身の存在を告げ、「われらが往生の定まりたる証拠」となり、ずっと崩れない大きな安心となって入り満ちてくださるのでした(以上)。
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