2025年2月3日の法話会と次回(3月3日)のご案内

2025年2月3日の法話会にご出講頂いたのは、福岡県よりおこしくださいました松月博宣先生です。松月先生がお話くださった中で印象的であった話を二つほどご紹介いたします。
Contents
親しい人との別れと仏の教え
福島県のお寺の前住職である松月先生ですが、実家は広島県であり、四年前に実父がご往生なさったそうでこのようなお話をくださいました(以下、松月先生の視点です)。
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私(松月先生自身のこと。以下、省略)は父と別れて四年が経ちました。この四年間、折に触れて思うことがあります。それは、私たちが仏様のお話を聞くということの意味にも通じるものがあるのではないか、ということです。
私たちは、仏様に対して何かをして差し上げる立場ではありません。むしろ、仏様から与えられたものを受け取り、その教えに耳を傾けることが大切なのです。同様に、私たちは親しい人を失ったとき、さまざまな思いを抱きます。身近な人が先立つと、誰しも悔いが残るものです。あのとき、もっと優しく接していればよかった、もっと声をかけてあげればよかったと、心の中に後悔が生まれます。私自身も例外ではなく、父が亡くなったとき、多くの悔いが残りました。
私の父が他界したのは、ちょうど四年前のことでした。当時は新型コロナウイルスの感染拡大の最中で、思うように会うことも叶いませんでした。もう少し頻繁に帰省し、顔を見せていればよかった。温泉の一つでも連れて行ってあげればよかった。そうした後悔が、心の中に次々と浮かんできました。おそらく、今日この場にお参りされている方の中にも、同じような思いを抱えている方がいらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、どれだけ悔いても、すでに叶わぬことを嘆いても仕方がありません。過去を変えることはできないからです。では、私たちに今できることは何か。それは、できなかったことを悔いるのではなく、故人からしてもらったことを思い返し、感謝することではないでしょうか。
私の父は九十三年の生涯を生きました。その人生は、決して楽なものではありませんでした。三人の子どもを育てるため、父は自らの命を削るように働き、私たちのために尽くしてくれました。さまざまな苦労があったことでしょう。しかし、その苦労は、まぎれもなく私たち子どものためにあったのです。父が私にしてくれたことの数々を、今改めて噛みしめる。それこそが、残された私ができる唯一のことなのかもしれません。
仏様の教えも同じです。私たちが仏様のために何かをするのではなく、仏様が私たちに与えてくださったものに耳を傾ける。そして、それが他の誰のためでもなく、自分自身のためにあることを見つめ直す。これこそが、私たちが仏法にふれる意義ではないでしょうか。
今日、皆さまにお話をするにあたり、冒頭で法語を紹介しました。それは、まさにこの思いを表すものです。仏様の教えに触れ、故人の歩みを振り返り、そこに感謝の心を抱くこと。それが、私たちにできる最大の供養なのかもしれません。
悲しい希望を抱く存在
私(松月先生自身のこと。以下、省略)たちは皆、自分を中心に考える生き物です。そのため、ときには他者の死さえ願ってしまうことがあります。それは決して特別な感情ではなく、誰もが心の奥底に抱えているものなのかもしれません。
私の妻は、実に優しく、細やかな気配りのできる人です。そのことを特に感じたのが義母の介護でした。義母は104歳で亡くなりましたが、その最期の20年間を、妻は自宅で介護し続けました。
介護というのは、言葉で言うほど生易しいものではありません。未来が見えない日々の連続です。介護される側のために、介護する側は自らの時間、体力、心のすべてを捧げなければなりません。確かに、デイサービスやショートステイなどの支援を受けることもできます。しかし、それでも介護の負担がなくなるわけではありません。
そんな日々の中、ある朝のことでした。子どもたちは皆、京都で学んでおり、寺には私と妻、そして義母だけが暮らしていました。朝食の最中、妻がふと「あ、ばあちゃんが呼んでる」と言います。私にはまったく聞こえなかったのですが、長年介護を続けてきた妻には、小さな声でもすぐに分かったのでしょう。
しばらくして妻が戻り、「ちょっと時間がかかった」と言いました。聞けば、母が粗相をしてしまい、シーツから寝間着まですべて汚れてしまったとのことでした。そこで妻は、おむつを替え、温かいタオルで体を拭き、新しい寝間着を着せ、ベッドを整え、母が落ち着くまで寄り添っていたのです。そしてようやく食卓に戻ると、「いただきます」と言って食事を再開しました。
私はふと、「あんた、ようやるな」と声をかけました。そのとき、妻は箸を動かしながら、ぼそっと呟いたのです。
「これ、いつまで続くんかね……」
その言葉を口にした瞬間、妻はハッとしたように動きを止めました。そして静かに箸を置きました。そのとき、彼女は気づいたのでしょう。「いつまで続くのか」という言葉が、すなわち「終わりを望む」気持ちであることに。すなわち、義母の死を望む心が、自分の中にあったという事実に。
介護には未来がありません。しかし、ただ一つの希望があります。それは、介護が終わるときが来るということ――すなわち、介護を受ける人の死です。介護者にとって、その瞬間こそが、身体も心も解放される時なのです。しかし、それはあまりにも悲しい希望です。他者の死を待ち望んでしまう自分に気づいたとき、人は己の心に愕然とするのです。
そのとき、妻はそっと手を合わせ、一人、念仏を唱えました。それは何のための念仏だったのでしょうか。罪滅ぼしのためでしょうか? 介護する者として、愛する人を看取る者として、心の奥底で死を願ってしまった自分への懺悔のためだったのでしょうか?
いいえ、それはまさに「懺悔の念仏」でした。人は誰しも、完全な善人ではいられません。介護に限らず、私たちは日々、自分の都合を優先し、ときには誰かの不在を望んでしまうことがあるのです。そんな弱さを抱えながら、私たちは生きています。
仏教には、「懺悔」という言葉があります。これは、過ちを悔いることではなく、ありのままの自分を見つめ、その弱さと向き合うことを意味します。人は誰しも、死を望む心を抱えている。しかし、それに気づき、受け入れ、そして仏に手を合わせることこそが、人としての誠実な在り方なのかもしれません。
次回の法話会
次回の法話会は3月3日(月)、大分県の蓮谷啓介先生がおこしくださいますので、皆さまのご参拝をお待ちしております。
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