2025年12月3日の法話会と次回(2026年1月3日)の新年会のご案内
まず初めに次回の新年会のご案内をいたします。参拝者に新年の乾杯にあげた杯(さかずき)をプレゼントいたします。
(日時)2026年1月3日 13時30分~勤行/住職挨拶
(挨拶)西原祐治(住職)
(場所)西方寺・本堂
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2025年11月3日の法話会には、新潟県より雲林重正先生がご出講くださりました。先生の身の回りの話から分かりやすくお話くださったので、その内容をご紹介いたします(各お話のタイトルは副住職[西原大地]がつけています)。
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Contents
老いに気づく時―玉手箱の白煙が示すもの
(講話冒頭、子どもからの素朴な質問に答える親の様子から)
「お母さん、どうして生きているの?」と、低学年の男の子は、それが気になったらもうそれしかありません。お母さんは料理をしながら考えます。「そうだね、お母さんはね、しょうがないから生きているんだよ」――そんな風に答えるしかないのではないでしょうか。
だって、皆さんこの世に生まれてくる前に、どこか遠いところからこの世を見て、「あの家はお父さんお母さんも美男美女だし、それなりにお金もありそうだ。ここに生まれれば、ちょっといい生活ができるかな」と、選んで生まれてきたわけではないでしょう?「今度生まれるときはあれをやろう」と思って生まれてきたわけでもない。
気がついたら始まっていた、しょうがなく生きている。どうなんでしょうか?
お釈迦様は言われます。私たちは、よっぽど自分は何でも確かで知っているつもりでいるけれども、自分がどこからやってきて、どこへ行くのかを知らないだけではないか。せっかく今与えられているこの時間、この時間のあるうちに「何を聞くべきなのか」「何を知るべきなのか」「何を成すべきなのか」、何も知らないではないか、と。
人間が求める二つのこと
しかし、お経にはこうも書いてあるんですね。自分で選んで生きてきたわけではないけれども、人間は二つのことを求めながらこの人生を生きていく、と。2500年前のお釈迦様も二つ言われています。
その二つとは何か。
- 日々、今、今、目先の幸せを求めて生きていく。
- 別の言い方をすれば「欲望」と言ってもいいかもしれません。美味しいものを食べたい、楽しいことをしたい、きれいな服を着たい、あれをしたい、これがしたい。その目先の欲望、目先の幸せを日々追い求めながら一生を生きていく。
- 元気で長生き。
- 限りがあることを知っているからこそ、その時間を少しでも長く、長くすることにかかりきりになっていく。
私、その話を考えたときに、いつも一つの歌が思い浮かびます。
浦島太郎の歌
今日は西方寺様の講話会をしていただきましたので、記念に一曲歌わせていただこうと思います。皆さん、「浦島太郎の歌」はご存知でしょうか。
(浦島太郎の歌は五番まであり、歌っていくとだんだん悲惨な話になっていく、と解説を挟み)
皆さんも一緒に口ずさんでみてください。
昔むかし浦島は、助けた亀に連れられて、} \\ \text{竜宮城へ来て見れば、絵にもかけない美しさ。
これはなんとなく歌えますね、一番は。二番はこうです。
二、乙姫様の御馳走に、鯛や鮃(ひらめ)の舞い踊り、ただ珍しく面白く、月日の経(た)つのも夢の内。
そして三番。
三、遊びにあきて気がついて、おいとまごいもそこそこに、帰る途中の楽しみは、土産にもらった玉手箱。}
四番、このあたりから悲惨な話になってきます。
四、帰ってみればこはいかに、もといた家も村もなく、道に行きあう人々は、顔も知らぬものばかり。
五番、最後です。
五、心細さにふた取れば、あけて悔しき玉手箱、中からぱっと白煙、たちまち太郎はお爺さん。
浦島太郎の心情に重ねて
聞けば「浦島太郎ってそういう話だったな」と分かっていただけると思うのですが、私この歌を歌うと、これはどなたかの心情の歌だなと思いながら聞くんです。五番の「心細さにふた取れば、あけて悔しき玉手箱」――これは浦島太郎の心情なのですが、同時に年を重ねられた方の気持ちの歌にも重なるのではないか、と思うんですね。
ちょうど、今90歳や100歳ぐらいの方が、ご自身が子供だった頃から現代に至るまでの時間の流れに、この歌を重ね合わせるのではないでしょうか。
例えば、毎日のご飯を考えても、今のご馳走と昔のご馳走を比べれば、今は毎日がご馳走です。テレビをつければ、楽しい娯楽もたくさんある。私たちはその目先の楽しさ、美味しさに酔いしれる。竜宮城で過ごす浦島太郎のように。
昔むかし浦島は、助けた亀に連れられて、竜宮城へ来て見れば、絵にもかけない美しさ。
乙姫様の御馳走に、鯛や鮃の舞い踊り。ただ珍しく、面白く、月日の経つのも夢のうち。
しかし三番で、**「遊びにあきて気がついて」**と、やはり「帰らなきゃ」と現実に気づく。
帰ってみると四番。
「帰ってみればこはいかに、もといた家も村もなく、道に行きあう人々は顔も知らぬものばかり」。
ご近所の方とお茶飲みしながら外を眺めていると、「あれはどこの家の人かな。隣の家の嫁さんの顔も見たことねえや」と言われます。自分の知っていた方々は皆あちらへ行かれ、新しい方、若い人が増え、自分の知らない顔ばかりになっていく。
では、変わったのは周りだけかというと五番です。
「心細さにふた取れば、あけて悔しき玉手箱。中からぱっと白煙、たちまち太郎はお爺さん」。
変わったのは周りだけじゃなく、自分を見たら「もうこんな年になっていた」――この歌を、年を重ねられた方が歌って楽しむのかというと、これを子供に歌わせるわけです。
どんな思いで歌わせるんでしょうか。
「人生はあっという間だよ」ということでしょう。「やるときにやることをしとかないと、人生遊びほうけているとあっという間に終わってしまうから、なすべき時にはなすことをちゃんと努力してしときなさいよ。遊びほうけてちゃだめだよ」という思いで歌わせたのではないでしょうか。
人生に必ず訪れる終わり
お釈迦様は言われます。私たちは、どこから来てどこへ行くのかを知らないだけじゃない。今与えられたこの時間の中に「何をなすべきなのか」「何を聞いておくべきなのか」「何を知っておくべきなのか」も知らない、と。
目先の幸せと、それを長くすることにかかりきりになるけれども、こう続きます。
「でも必ず私たちには終わりがやってくるじゃないか」
お経にあると、人が終わるときにはどのような思いが湧いてくるかということがそこに書かれています。どのような思いを、最後迎えようとする人の心の中には湧き起こってくるか。それは「悔苦(けく)こもごもいたる」と書いてあります。
- **悔(け)**は「後悔」の「悔」。
- 「あの時ああしとけばよかったな」「なんであの時あんなだったんだろうか」という、過去への後悔の思い。
- **苦(く)**は「恐れ」。恐れおののくということです。
- 「今から自分が終わりがやってくる時に、自分は一体どうなっていくんだろうか」という、未来に対しての恐れの心が次々と湧き起こってくる。
後悔の思いと、恐れの思いが次々と交互に湧き起こってくるんだ、とお経には書いてあるんです。
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過去への慰めと未来への救い:浄土真宗の教え
(講話再開、人々が交わす会話の話題について)
面白いなと思うのは、みんな何の話をしているかというと、大抵過去の話をしていますよね。「いや、昔はね」とおばあちゃんたちが集まると、昔話。「昔はあんなことあったね、昔はこんなことあったね」。来年の話をすればいいじゃないですか、と思うんですけれどね。でも「昔はね、昔はね」と、過去の話ばかりをしています。
次の月に行っても、また同じ話が繰り広げられています。
やはり、振り返っていく過去があるというのはありがたいことだと思います。「あの時はあんなことあったね」と喜べるのはありがたい。しかし、過去というのは現在の癒しにはなっても、それが救いにはなっていかないわけです。過去で楽しむことはできるけれど、その目を未来に向けた途端に、また虚しさに襲われていく――これが私たちの命のありようなんです。
だからこそ、この浄土真宗の教えは、私たちの未来について語っていくわけです。それが私たちが生きていく上での支えとなり、生きていく力になっていることを仏様はご存知ですから。
「生死の苦海」に漂う私たち
一番最初に、親鸞聖人のご和讃を一ついただきました。
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀(みだ)弘誓(ぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
この前半の二句は、私たちの姿を言っています。
「生死(しょうじ)の苦海(くかい)」。私たちの人生というのは、思い通りに行かない、なかなか超えていくことができない、苦しみの海のようなものだ。広い、大きい、深い海のような人生を「生死の苦海」と表します。
そして、「ほとりなし」。これは海の譬えでいう「岸がない」ということ。岸のない海です。
私、昔フェリーで舞鶴から小樽まで行ったことがあるんですが、初めて甲板に出たとき、天気は良かったんですが、一面海。どこを見ても海。どっちを見ても岸が見えない経験をしました。佐渡島が近い新潟の海岸線だと、向こう側に佐渡島が見えるから、あそこに行けば大丈夫だと分かります。
でも、その船の上から見渡した状態は、どっちを見ても岸がない。いらんことを考えました。「ここでこの船が沈んだら、自分はどっちに泳いでいけばいいんだろうか」と思いませんか?
これが**「生死の苦海ほとりなし」**ということですよね。
ほとりがないということは、「あそこまで行けばもう大丈夫だ」というものが、私たちの人生にはないということなんです。こうなればもう安心だ、あそこまでたどり着ければ大丈夫だ、という岸がない。海しかない。
「久しくしづめるわれらをば」ですから、私たちが生きているということは、海に沈まないように泳いでいるような、もがいているようなものなんです。お金を稼いだり、仕事をしたり、家族を持ったり、ご飯を食べたり、家に住んだり。それらは全て、沈まないようにもがき続けている行為です。
しかし、病になったり、年を重ねたりすると、もがく力もなくなっていきますから、だんだんブクブクと沈みつつある――それが「生死の苦海ほとりなし、久しく沈めるわれら」の姿です。
阿弥陀様の「弘誓の船」
その、今にも沈みそうな私たちをご覧になって、阿弥陀様がどうされたか。それが後半の二句で説かれます。
「弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
今にも沈みそうな私たちをご覧になり、阿弥陀様はまず、岸がないので岸を作るのです。それがお浄土という岸です。
そして、阿弥陀様自らが船となって、その私たちをそこに乗せて、お浄土へと渡していきますよ、というのがこのご和讃です。
このご和讃で「船」が説かれるのには意味があります。
船というのは、条件をつけないものです。
私の娘はカナヅチで水が苦手ですが、その船に悠々と走っている船にカナヅチの娘を乗せても、船が急にスピードを落とすことはありません。逆に、金メダリストを乗せた途端に船のスピードが上がるということもない。
船というのは、乗る人の能力に関係なく、船の働きで進んでいきます。
つまり、私たちの姿に条件をつけないのが「船」なわけです。
「弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」ですから、そこに「必ず」という言葉が出てきます。「私が必ずあなたをそのお浄土という岸へ渡しますよ」という、そういうご和讃だと思うんです。
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過去・現在・未来と「当」の深い意味
先ほど、過去・現在・未来ということを申しましたが、仏教ではこの過去・現在・未来のことを、**已(い)・今(こん)・当(とう)**というんですね。今回は、この「已・今・当」ということを題材にお話ししたいと思います。
新潟の「当院さん」という呼び名
今日、こちら西方寺さんの副住職である大地さんは、副住職さんと呼ばれるかもしれませんが、東京や関東で若いお坊さんを呼ぶとき、「若さん」とか「若員さん」とか、地域によって呼び名があると思います。
実は、私の地元である新潟には、若さんを呼ぶ特別な呼び名がありまして、これは新潟でしか通用しないんです。他県で言っても全然通じなくて、長野で聞いた時も「昔は長野でもそう呼んでましたけど、今は呼んでいません」と言われました。
私、新潟に帰ると、住職は父なので若さん(若住職)になるのですが、私は何と呼ばれるかというと、新潟では**「当院(とういん)さん」**って呼ばれるんです。
普通、「当主」と言うとその家の主(あるじ)ですから、住職の方を「当院」と言っても良さそうなんですけど、あえて若さんの方を「当院さん」って言うんですね。
私はこれは浄土真宗的な言い方なんだなと勝手に思っているのですが、ここに**「当たる」**という字がついています。「已・今・当」の、この「当」も「当たる」です。
棒アイスの「当たり」の意味
この「当たる」ってどういう意味かな、と考えますと、昨日ご住職とご飯をご一緒させていただいて、ふとアイスの棒のことを思い出しました。
ガリガリ君とか、ホームランバーとか、棒付きのアイスを食べていると、たまにその棒に**「当たり」**という字が出てくることがありますよね。
私は、この「当院」の「当」は、この棒の「当たり」と一緒だなと思うんです。
この棒に「当たり」ってどういう意味があるかというと、「まだもらってはいないけど、もうもらうことに定まっている」ということですよね。まだ交換してないから、もらったわけではない。けれど、この棒が付いた時点で、もう次の一本をもらうことが定まっている――これが「当たり」という意味なんです。
ですから、地元で「当院さん、当院さん」と皆さんから優しく声をかけていただくのですが、実は裏を返すとどういうことになるかというと、「このままいけば、お前がこのお寺の住職だからな」ということ。「逃げられないぞ」ということですね。将来、責任ある立場、住職になるんだからな、という言い方が、優しく「当院さん」と呼んでくださるこの響きの中に隠されているのかなと思うんです。
未来ではなく「到来」する世界
先ほども言いました。過去・現在・未来を仏教の中では「已・今・当」と当てますが、仏教の中には、お浄土というのは**「未来」の世界とは書いてなくて、「到来」**と説かれているんです。
「未来」というのは、どういう言い方かというと、「未だ来たらざる世界」。来るか来ないかわからない、未定ということですね。
しかし「到来(とうらい)」ってどういう読み方になるかというと、**「まさに来たるべき世界」**ということですね。
阿弥陀様が言うんです。**「もう決めたんだからな」**と。
皆さん、どこでどう命を終えるか分かりません。どこまで行って、どういう姿で終わっていくか分からないけれども、「もう私が決めたんだから、あなたの行き先を私が決めたんだから、そう思っておきなさいよ」――というのが「到来」ということではないでしょうか。
まだ実現はしていないけれども、まさに私の上に実現されてくる、まさに来るべき世界として、お経には「未来」という言葉ではなくて「到来」という姿で出てきているんだな、と思うんです。
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