1. HOME
  2. ブログ
  3. 2025年3月3日の法話会と次回(4月3日)の法話会のご案内

2025年3月3日の法話会と次回(4月3日)の法話会のご案内

Contents

2025年3月3日の法話会

2025年3月3日の法話会には、大分県から蓮谷啓介先生がご出講くださいました。苦悩の真っ只中にいる者に対する阿弥陀如来の慈悲の譬え話として、秋田忠嗣氏の『最後の小学校』という書籍の内容をご紹介くださったのですが、印象的な話でした。内容の意を汲んでご紹介いたします。

秋山忠嗣氏は、佐賀県の離島にある最後の小学校で、たった一人の児童と向き合う教員として赴任された方です。彼は自身の中学時代に不登校を経験し、深い苦悩を抱えた過去がありました。ご両親も当時は理解が及ばず、母親は過去の元気だった姿を引き合いに出して叱責し、父親は未来の立派な姿を期待して叱ることが続き、秋山氏は次第に自分の存在そのものに苦しむようになりました。

やがて、命を絶とうとした彼を家出の場面で引き止めたのは、厳格であった父親の変化でした。家を出ようとする息子に対し、次々と身の回りの物を置いていけと迫った父は、最後に「その服も脱いでいけ」と告げます。全てを脱ぎ捨て、ついには「この命もあなたからもらったものだから、今すぐ殺してくれ」と叫んだ秋山氏の前で、父親は膝から崩れ落ち、無言で息子を抱き締め、涙を流し続けました。この姿を通して秋山氏は、初めて父を心から信じることができたと語っています。

このエピソードは、阿弥陀如来のお慈悲を象徴するものとして語ることができます。私たちは日々、思うように生きられず、誰にも代わってもらえない苦悩を抱えています。親や家族でさえ理解できない孤独の中で、「なぜ生まれてきたのか」「何のための人生なのか」と涙することもあるでしょう。

しかし、阿弥陀如来は、まさにその苦悩の只中にいる私たちを目当てとしてくださった仏様です。過去を責めることも、未来に条件を課すこともなく、ただ今この瞬間の私を、そのまま抱き取り、救い取ってくださるのです。まるで、裸で震える息子を前にして、言葉ではなく涙で包み込んだ父親のように、阿弥陀如来は、変われない私、どうにもならない私を、初めから見捨てることなく、共にいてくださいます。

私たちが苦悩するのは、過去でも未来でもありません。まさに「今、ここ」においてです。だからこそ、阿弥陀如来は、いつでも、どこでも、この私を抱きとめる仏として、共にいてくださるのです。

次回(4月3日)の法話会のご案内

次回の法話会は4月3日に開催いたします。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

関連記事