次回(2025年5月3日)の法話会のご案内(広島県・服部法紹 師)

次回の法話会は、広島県より服部法紹師がご出講くださいます。過去の音源を探していたら、2016年11月20日にご本山の夜座でお話しているものを見つけましたので、内容をご紹介します。以下の文章はご法話の内容を取意したものですので、ご了承ください。
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私たちは、日々何気なく使っている言葉の中に、実は大きな力があることを忘れがちです。けれども、同じ出来事であっても、どのような言葉で表現するかによって、受け取り方や心の動き、そしてそこから育まれる感受性が大きく変わります。
たとえば、子どもが生まれるという同じ現象を表す際にも、「子どもを作る」と言うか「子どもを授かる」と言うかで、その表現に込められた意味や心持ちには大きな違いがあります。
「作る」と言えば、まるで自分の意思と行為によって意図的に生じさせたように聞こえますが、「授かる」と言えば、自分の力を超えた大いなる働きの中で、その命をいただいたのだという、感謝や畏敬の念が自然と表れてくるでしょう。
同様に、人が命を終えるという出来事を、「死」と呼ぶか「往生」と呼ぶかでも、その出来事の受け止め方が大きく違います。「死」という言葉には、そこで終わり、全てが尽きてしまうという印象がつきまといますが、「往生」と申しますと、それはこの命が終わるのではなく、新たに仏様として生まれていく、すなわち新しい命のはじまりであると捉えます。
このように、私たちがどのような言葉で物事を語るかによって、自らの心の有り様、そして育まれていく感性に違いが生じます。言葉は、単なる音の連なりではなく、私たちの心を映し出し、時に人生をも導く大きな力を持つものです。
ですからこそ、仏様のお言葉をいただく私たちは、日々の中で使う言葉にも少し心を配りながら、その言葉が生み出す心の動きや、人との関わりの在り方を大切にしてまいりたいものです。
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