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次回(2025年6月3日)の法話会のご案内(福岡県・宗 秀融 師)

次回の法話会にご出講くださるのは、福岡県の宗 秀融氏です。西方寺にもご出講くださっている福岡県・海徳寺の松月博宣先生のお寺のYouTubeチャンネルに宗氏のご法話があったので、少しだけご紹介します(【猫法話】海徳寺チャンネル/【宗秀融師】風呂場で泣いたあの日のご縁

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私(宗 秀融氏)はこれまで、父の言葉をただ聞き流しておりましたが、近頃になってようやく、その言葉の意味が少しずつ心に沁みるようになってまいりました。「座っちゃおられんのだ」という父の言葉の意味が、今になってようやく味わえるようになったのです。そのことを身近に感じることの出来る話を一つご紹介いたします。

山口県に、広兼至道(ひろかねしどう)というお坊さんがおられました。すでに他界されて久しい方ですが、この広兼さんは、かつて骨髄腫という骨のガンを患われたのです。その病気が見つかったのは大阪の病院でした。

病気が発覚したそのとき、広兼さんはすぐに山口におられた奥様に電話をかけ、「検査に3日もかかると言われた」と伝えたそうです。通常、検査は一日で済むものですから、奥様は「これはただごとではない」と直感し、すぐに大阪へ向かわれました。

当時は、患者本人への病名告知が一般的ではありませんでした。広兼さんの奥様も、病院側から「ご主人は骨髄のがんで、おそらく余命は半年ほどでしょう」と言われたそうです。

そのとき奥様は、頭の中が真っ白になったといいます。まだ小学生の男の子が三人おられ、これからどう育てていけばよいのか、山口のお寺はどうするべきか、途方に暮れたそうです。

そして、広兼さんに病名を伝えるかどうか、深く迷われました。病室に入ると、広兼さんは奥様の顔を見てすぐに察しました。「お前、どんな病気か言われた?そのまま教えてくれ。私はそのまま受け止めるから」とおっしゃったのです。

そこで奥様は意を決して、「骨髄のがんで、余命は半年ほどとのことです」と告げました。すると広兼さんは、第一声でこう言われたのです。「そりゃ、お前、きつかったなあ」と。奥様はその言葉が本当に嬉しかったと後に語っておられます。ご主人は自分の病よりも、家族を思いやっていたのです。三人の子どものこと、山口のお寺のこと、それらを案じていた奥様の心労を思いやる言葉でした。

その後、治療について先生から「大阪でもできるけれど、山口の近くに転院することもできますよ」と提案されました。広兼さんは「やっぱり、私は山口で生まれ育ったから、故郷の近くに戻りたい」とおっしゃいました。

ただ、山口には専門病院がなかったため、隣の広島にある病院へ転院することとなりました。しかし病状が進んでおり、普通に移動できる状態ではなかったため、大がかりな転院計画が立てられます。

まず大阪の病院から救急車で大阪駅まで向かい、そこから特別な許可を得て、ストレッチャーに乗ったまま新幹線で広島駅へ移動。そして広島駅から再び救急車で病院まで向かうという、周到な手配がされたのです。

広兼さんのご両親はまだご健在であり、父親はその転院の日、先に広島の病院へ向かわれていました。到着予定時刻を確認するため、看護師さんに尋ねられたそうです。「息子は何時頃に着きますか?」と。看護師さんは「おそらく3時間ほどかかります。もしお近くなら一度ご自宅へ、遠ければロビーでお待ちください」と言いました。

ところがしばらくして、その看護師さんは病院の玄関の外で立ち続けているお父さんの姿を見つけました。再び声をかけ、「ロビーでお座りになってお待ちください」と勧めましたが、お父さんはこう言われたのです。

「確かにその話は先ほども聞きました。しかしね、今日息子が帰ってくるのは、ただの里帰りではないんですよ。病を抱え、苦しみを背負って、さまざまな思いを抱えてこの地へ来るのです。私はとても座ってなんかおられんのですよ。どうか、ここで立って待たせてください」

看護師さんはそれ以上何も言えず、「どうかご無理なさらぬように」とだけ伝えて、立ち去ったそうです。

その日、お父さんは3時間以上、玄関先でずっと立ち続けて息子さんを待ちました。

何も知らない広兼さんは救急車で到着し、そのまま病室へ向かいます。入院のための手続きや説明などで40分ほど経ったころ、看護師さんからこう聞かされたそうです。

「広兼さん、あなたのお父様はね、3時間以上も前からずっとここにおられました。しかもずっと病院の外で立ったまま、あなたの到着を待っておられたのですよ」

その言葉を聞いた広兼さんは、「お立ち姿というのは、ありがたいものですね」と静かにおっしゃったそうです。

私たちが手を合わせる阿弥陀さまも、やはりお立ち姿です。私たちの悲しみも、苦しみも、すべて見抜いてくださる仏さまなのです。

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